ブラッド・ピットが甦らせたスターの神話 異例のフィクション作品『F1/エフワン』の試み

F1(フォーミュラ1)は、時速300キロを超えるスピードで走行することのできるマシンたちが、世界各国のサーキットで速さを競う、最高峰のモータースポーツ。名だたる自動車メーカーが技術を競い合い、ドライバーやクルーたちが、速度、戦略、技術の限界を目指し、ファンを魅了している。
ブラッド・ピット主演、ジョセフ・コシンスキー監督による映画『F1/エフワン』は、そんなレースの現場にシネマカメラを持ち込み、さらには本物のレーシングカーを撮影用に改造して迫力ある映像を生み出した、異例のフィクション作品である。ここでは、そんな本作『F1/エフワン』の内容とともに、これが公開される意味について考えていきたい。
ブラッド・ピットが演じるのは、放浪のプロドライバー、ソニー。かつてはF1界で注目された伝説のドライバーだが、現在はインディカーやデイトナなどのレースを転戦し、契約料で稼いでいる。そんな彼が、F1時代の旧友(ハビエル・バルデム)に誘われ、成績が低迷し危機を迎えているチームを浮上させるためF1の世界へと復帰する……というのが、ストーリーの導入部分だ。それだけ聞くと、よくあるエンタメ系のアメリカ映画だと思えるが、作品を非凡にしているのが、描写のリアルさだ。
とりわけ注目すべきは、レース中にドライバーや、その目線を観客に体感させる臨場感。『トップガン マーヴェリック』(2022年)ではIMAXカメラなどを戦闘機のコクピットに搭載したコシンスキー監督だが、ここでもIMAXカメラをF2マシンに装着し、実際のF1のピットやグリッド、サーキットを映し出す。
マシンの外側に装着したカメラは、走行中に細かい砂や石がぶつかったことで、ぼろぼろの状態となったという。その事実が、常軌を逸したスピードの世界の過酷さを伝えている。そうやって生み出された映像は、まるで自分がF1ドライバーになったかのような没入感を生んでいるのだ。(※)
爆音が鳴り響き、振動が劇場の床や椅子を伝って観客を震わせる。レースがスタートする瞬間、筆者も釣り込まれて、思わずアクセルを踏む動作をしてしまったし、走り出してコーナーに侵入する場面では自然と身体が傾く。クラッシュでもしようものなら咄嗟に声が出そうになってしまう。優れたカーレース映画は数あれど、ここまで臨場感を与えられるものはなかったのではないだろうか。
リアリティが重視される一方で、一握りのドライバーしか経験できないのかもしれない、ある種の幻想的な感覚も表現される。主人公のソニーは「レース中にすべてが静まり返る瞬間がある。そのとき、誰にも俺は止められない」と語る。レースという狂騒のなか、極限状態を維持し続けるなかで訪れる、対照的な“静寂の瞬間”が、本作の精神性をかたちづくっている。
それを体現しているのが、冒頭のシークエンスだ。海の波を映し出すカットと、ドライバー視点のレース映像。2つの画面が映像の乱れをともなって交互に映し出される。この往還こそが、ソニーの内面描写を予告するイメージとして編集されているのだ。これがあることで、本作は単に、レースの興奮のみを伝える作品ではなく、ある種の哲学性を内包しているということが分かる。
本作のソニーが精神的に別格の位置に到達しているというロマンは、「傑出したアスリートは人間的に成長した存在であってほしい」という、人々の願望の表れでもあるはずだ。もちろん、数々の報道を見ていれば、現実のアスリートの成績と人間性には、何の関係もないと分かってしまうのだが、実在のボクシングチャンピオンを描いた、スポーツ映画の名作である1942年の映画『鉄腕ジム』が、その精神性こそを称揚していたように、自身もハリウッドスターという傑出した存在であるブラッド・ピットが、観客の期待に応え、そういう存在を体現してくれる。