『国宝』を女性たちの視点から読み解く 高畑充希、森七菜らの美しく恐ろしい“強さ”

映画『国宝』が描いたのは、歌舞伎という伝統芸能の世界に生きる人びとの執念だ。その世界を覗き見た竹野(三浦貴大)が呟いた「あんなふうには生きられないよな」のひとことに、大きくうなづいてしまった。
芸のためなら迷わず悪魔と契約を交わす喜久雄(吉沢亮)。それは人並みの幸せも、人間として大切なものも、すべて投げ売ってでも表現者として生きるという強い意志。その「狂気」とも呼びたくなる芸への執念が、もはや喜久雄を演じた吉沢亮という役者の中からもにじみ出ているのではないかと思わせるほど、圧倒される演技だった。
そんな「すごいものを観た」という心の震えは、どこか「恐ろしいものを観た」という身震いにも近い。喜久雄は花井東一郎に、そして三代目・花井半二郎に、やがて国宝と呼ばれる存在へと化けていく。その「美しい化け物」=人ならざるものになっていく姿が恐ろしくも目が離せないのだ。まるで、父・権五郎(永瀬正敏)が命を落とす瞬間を、喜久雄が瞬きを忘れるほど見入ってしまったように。
そんな喜久雄が大成していくなかで、彼の周りには何人もの女性たちが登場した。そういう時代、そういう世界のお話という前提を頭に入れても、いわゆる「芸の肥やし」と言われてしまいそうな女性たちの姿。しかし、彼女たちは本当に喜久雄に翻弄されただけの人生だったのだろうか。舞台には上がらない彼女たちもまた、たくましく自分の役目を演じ、そして自らの人生を生きる執念を見せてくれていたのではないか。
喜久雄が欲した“血”を手に入れて、梨園の女将になった春江
喜久雄を追って上阪し、ずっとそばで支えていくと思われた春江(高畑充希)。しかし彼女は喜久雄のプロポーズを断って、喜久雄のライバルとも言える御曹司の俊介(横浜流星)と消えてしまう。その理由が春江の口からハッキリと語られていないだけに、映画『国宝』のなかでも想像をふくらませずにはいられないポイントだ。
これから歌舞伎役者として駆け上がっていく喜久雄を思い、そんなタイミングで自分が結婚しては人気商売の邪魔になる。そして、すでに脚光を浴び始めた喜久雄よりも、その喜久雄に自分の居場所を奪われる形で傷ついている俊介こそ支えてあげたい……そう思ったのも嘘ではないはず。
しかし、春江の心の中はそれほど明確に説明できるほど単純ではなかったようにも思えた。芸ひとつで人生を切り拓いていく喜久雄のそばにいるうちに、きっと春江もその成り上がっていく生き方に負けてられないと影響を受けたとしても不思議ではない。
このまま自分が何者にもなれず、喜久雄が手の届かない遠くへ行ってしまう姿をただ見届けるなんて、心が死んでしまう。喜久雄と共に背中に入れ墨を彫ったときの叫びは、ずっと春江の中にこだまし続けていたのだろう。
喜久雄にすがるだけだった人生を一変させる武器がほしい。喜久雄にとって芸のような、これで生きていくという武器を。そう願う春江のもとに、同じく喜久雄の芸に打ちひしがれた俊介が立っていた。俊介には歌舞伎役者の“血”がある。その血を持つ者と結ばれたら、喜久雄に圧倒されるばかりではなく、この世界で強く生きることができるはず。

喜久雄が演じる『曽根崎心中』と連動するように、春江が俊介の手を取って歩き出したあのシーンは、2人が自分たちで自分を殺し、新しい自分と生きようとした場面だったのではないか。あの瞬間、春江は喜久雄に恋する少女だった自分を殺した。離れていく喜久雄を恨んで死んでしまう前に。そして、俊介もまた御曹司だった自分を葬った。憎悪に飲まれて、芸を愛する自分を失う前に。
やがて2人の間には跡取り息子が生まれる。それは喜久雄がどんなに欲しても手に入らなかった“血縁”の証。堂々と喜久雄の前に“母の顔”で現れる春江には女の覚悟が漂っていた。そして、国宝となった喜久雄の舞台を観ている春江の姿に、「一番のご贔屓になって、特等席でその芸を見る」と、あのプロポーズの夜に話した言葉を叶えていることに気づかされる。彼女もまた歌舞伎の世界で一目を置かれる存在「梨園の妻」という美しい化け物になったのだ……なんて考えるとそのしたたかさにゾクゾクする。