『国宝』における田中泯の“悪魔的存在感” 美しい化け物=小野川万菊を成立させた説得力

『国宝』は、“血と才能”の物語である。
主人公の立花喜久雄(吉沢亮)が、上方歌舞伎界のスター花井半二郎(渡辺謙)に才能を認められて伝統芸能の世界に足を踏み入れ、半二郎の息子・俊介(横浜流星)と友情を育みながら、人間国宝へと上り詰めていく。こう書くと、「俺とお前で、歌舞伎の天下を獲ったる!」系サクセスストーリーのように思えてしまうが(実際、そうした側面も孕んでいるのだが)、スクリーンに映し出されるのは、もっと陰鬱で、もっと悲劇的で、もっとドロドロとした手触りの物語だ。

上方歌舞伎の名門に生まれ、将来を嘱望されてきたプリンスの俊介(=血)と、任侠の一門に生まれ、やがて天性の素質を開花させていく喜久雄(=才能)。世襲制の色が濃い梨園の世界で、お互いがその境遇に苦しみ、栄光と挫折を味わう。喜久雄が俊介に対して「お前の血を飲みたい」と語りかけるシーンは、閉鎖的空間から生まれるエロティシズムを感じさせつつ、努力だけではどうすることもできない哀しさが凝縮されている。だからこそ、天賦の才能に恵まれた喜久雄は、さらなる高みに向かって邁進していく。彼は芸を磨くことでしか己を承認できないのだ。

これまでも、才能にまつわる映画は数多く作られてきた。生まれながらにして天才的な音楽の才能を持つモーツァルトと、凡庸な宮廷音楽家サリエリとの対立を描いた『アマデウス』。世界一のジャズドラマーを目指す学生ニーマンと、その才能を限界まで引き出そうとする鬼教師フレッチャーとの、壮絶な師弟関係を描いた『セッション』。もしくは、完璧なバレリーナを目指すニナが、自身の内なる闇と戦いながら「白鳥の湖」の主役を演じようとする『ブラック・スワン』。得てして才能の物語は精神崩壊系になりがちだが、『国宝』の場合はそこに“血”という横軸が加わることで、ドラマに奥行きが生まれている。
しかもこの作品は、さらにもう一つ大きな仕掛けが施されている。心の奥底に抱く強い欲望(知識、富、権力、名声、若さなど)を叶えるために魂を悪魔に売り渡す、ゲーテの戯曲「ファウスト」でよく知られるモチーフ「悪魔との取引」(Deal with the Devil)が登場するのだ。契約した者は、寿命であったり、愛する者であったり、精神的な安定であったり、その人物にとって大切なものが代償となる。
三代目半次郎の襲名披露を終えた喜久雄は、神社にお参りをする。そして娘に、「神様と話してたんとちゃうで。悪魔と取引してたんや」と語りかける。女形を極め、血脈を乗り越え、人間国宝になることでその才能を世間に知らしめることが、彼の最大の望み。ラストシーンではすっかり老いた喜久雄が登場するが、彼の表情からは、人生の喜びや充実感が全く感じられない。彼は世俗的な幸福は求めていないし、おそらく地獄に落ちても構わないと思っている。『国宝』は、歌舞伎を舞台にした「ファウスト」なのだ。

そうなると、ある疑問が浮かび上がる。この映画における悪魔……メフィストフェレスは誰なのだろうか。おそらくその正体は、“彼”の舞台を観た喜久雄が「こんなもん女ちゃうわ。化け物や」と驚愕し、俊介も「美しい化け物やで」と同調する人物、人間国宝・小野川万菊(田中泯)である。