『べらぼう』にはなぜ“美しい”瞬間があふれているのか 今までにない大河にした“夢”の描写

『べらぼう』“夢”の描写の美しさ

 蔦重(横浜流星)が瀬川/瀬以(小芝風花)と見た「夢」、平賀源内(安田顕)が田沼意次(渡辺謙)と見た「夢」――そのいずれもが叶わぬまま、文字通り「夢」と消えてしまった。しかし、一度は消えてしまった「夢」が、再び動き始めることもある。

「歌麿。あの時の約束を守らせてくれ。お前を当代一の絵師にする」

 NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第18回「歌麿よ、見徳一炊夢」は、かつては四六時中蔦重と行動を共にしながらも、突如理由も告げずに失踪した唐丸――今は「捨吉」と名乗っている男(染谷将太)と蔦重が再会し、彼に「歌麿」という新しい名前を与えると同時に、彼を当代随一の絵師にするという「夢」を、蔦重が再び見始める回だった。

 それにしても、本作のタイトルに「蔦重栄華乃夢噺」とつけられているのは、つくづく意味深いことだ。いや、恥ずかしながら正直最初は、このドラマが蔦屋重三郎という人物の立身出世の物語であることを明示するためのものだと思っていた。いやいや、違うだろ。どうやら「夢」は、この作品の中核にあるメインテーマとも言うべきものなのだ。

 ここでいう「夢」は、必ずしもひとりで見る「夢」ではない。蔦重が瀬川と共に描いた「夢」がそうであったように、平賀源内が田沼意次と共に描いた「夢」がそうであったように――そして蔦重が再び歌麿と共に描き始めた「夢」がそうであるように、誰かと共にそれを叶えようと願うのが「夢」であり、主人公である蔦重のみならず、彼の周囲にいる人々――もっと言うならば、江戸時代の後期を生きた人々が、それぞれの心の中で願った「夢」を活写することが、本作のメインテーマなのではないだろうか。たとえ、そのほとんどが、儚くも叶わぬものだったとしても。

 ところで、今回のサブタイトルが「歌麿よ、見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)」とあったように、今回の話は、蔦重が唐丸と再会し歌麿の物語が動き始める話であると同時に、すっかり蔦重の板元・耕書堂――思い返せば、その屋号も源内が蔦重に託した「夢」だった――の常連戯作者となった朋誠堂喜三二こと平沢常富(尾美としのり)が、吉原の居続けの最中に着想を得て、黄表紙『見徳一炊夢』を完成させるまでの話でもあった。素晴らしい夢を見ることができる枕を貸し出す不思議な店の噂を聞きつけた、とある大金持ちの息子が、件の店を訪れる。しかし、世知辛いもので、見ることのできる「夢」の長さは、枕の値段によって変わるようだ。半時(一時間)から50年まで。徐々に短い夢では満足できなくなった主人公は、やがて親の金をくすねて50年の最高級品を借り受けるのだが……。

 この話は、その枕が「邯鄲(かんたん)の枕」と名づけられているように、中国の故事『邯鄲の枕』に着想を得た話のようだ。日本でも、能の演目『邯鄲』として古くから知られているこの話(というか、それが横浜流星主演、藤井道人監督の映画『ヴィレッジ』(2023年)のインスパイア元だったというのも不思議なめぐり合わせだ)。その内容は以下のようなものとなっている。

 人生に不満を持った若者が、とある道士と出会い、彼から夢が叶う枕を授けられる。早速その枕を使ってみたところ、若者は自らが望んでいたような波乱万丈の人生を送ることになり、栄華を極めながら愛する家族に看取られ静かに息を引き取る。しかし、目覚めた先は、最初に眠りについたときと同じ場所だった。それどころか、寝る前に火にかけた粥も炊けてないほど短い時間だったという話だ。

 いわゆる夢オチの元祖とも言うべき話である。というか、そもそもこの『邯鄲の枕』に着想を得て書かれたのが、恋川春町(岡山天音)の傑作黄表紙『金々先生栄花夢』ではなかったか。そう、喜三二の『見徳一炊夢』は、むしろそちらを意識した作品であり、劇中で「夢から覚めても、また夢?」と、その着想の瞬間が描かれていたように、夢から覚めてもまた夢だったという夢オチの二段重ねが、さらに粋であるとされたのだ(ちなみに、本作を誰よりも評価したのが、江戸を代表する狂歌師・太田南畝だった)。

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