『地震のあとで』“デタッチメント”を具現化した作品に 1995年と2020年の非日常の中の日常

第2話「アイロンのある風景」は、2011年1月から物語が始まり、阪神・淡路大震災から16年後の日本が舞台となっていたが、今回は東日本大震災から9年後が舞台となっている。震災やコロナ禍の渦中ではなく、大きな天災が起こる直前や数年後を舞台にしているのが『地震のあとで』の特徴だが、その結果、登場人物が大きな出来事の渦中にいるにも関わらず、自分の身に起きていることを他人事のように感じているという現実感のなさが劇中を漂っている。

村上春樹が論じられる際に「デタッチメントからコミットメントへ」という言葉がよく用いられる。春樹は自身の作風が、無関心を装い他者との接触を避けるデタッチメントなものから、他者に関心を持ち、積極的に関わっていくコミットメントなものへと『ねじまき鳥クロニクル』を書いたことで変化したと語っている。
それは地下鉄サリン事件に対するアプローチにも強く現れており、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした『アンダーグラウンド』(講談社)とオウム真理教の信者と元信者にインタビューした『約束された場所でーunderground2』(文藝春秋)というノンフィクションを書いている。
そして、この2冊の後に書かれたのが『神の子どもはみな踊る』なのだが、今読むと現実に起きた出来事に対する返答という意味においては「コミットメント」な小説だが、物語としては「人間は完全な当事者にはなれない」という「デタッチメント」を大切にしているように感じた。
この「デタッチメント」な感覚を映像に落とし込むと『地震のあとで』の異界のような東京のビジュアルになるのだろう。
父親かもしれない男を追う善也は、やがて野球場にたどり着くのだが、そこで男の姿は消えてしまう。その後、善也は宗教団体の「導き役」だった田端さん(渋川清彦)との別れの場面を思い出す。二人は神に祈ることの意味について語り合うが、最後に田端は、善也の母親に対して「邪な気持ち」を抱いていたことを懺悔する。
耳の欠けた男、田端、お方は、それぞれ善也の父と言える存在だったが、結局、善也は父を手に入れることができずに、一人取り残された。

父の不在を受け入れた善也は、雨乞いをするかえるのように、夜の野球場で踊り出す。その姿は、不在の父から開放された喜びを表現しているように見えるが、それでも人は祈り続けるしかないという諦めの気持ちも感じる。
それにしても善也は、大学の時に「かえるくん」と呼ばれていたそうだが、次回の「続・かえるくん東京を救う」と何か繋がりがあるのだろうか?
「かえるくん」は本作のアイコンと言える不可思議な存在だが、『地震のあとで』でどのように描かれるのか楽しみである。
■放送情報
土曜ドラマ『地震のあとで』
NHK総合にて、毎週土曜22:00~22:45〈全4話〉
出演:岡田将生、鳴海唯、渡辺大知、佐藤浩市、橋本愛、唐田えりか、北香那、吹越満、泉澤祐希、黒崎煌代、渋川清彦、黒川想矢、木竜麻生、津田寛治ほか
制作統括:訓覇圭、樋口俊一、京田光広
原作:村上春樹 『神の子どもたちはみな踊る』より
脚本:大江崇允
音楽:大友良英
演出:井上剛
写真提供=NHK





















