『地震のあとで』“デタッチメント”を具現化した作品に 1995年と2020年の非日常の中の日常

NHK土曜ドラマで放送されている『地震のあとで』は、村上春樹の連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社)を原作とする全4話のドラマだ。
第3話「神の子どもたちはみな踊る」は、宗教二世の善也(渡辺大知)が、地下鉄で見た、自分の父親かもしれない「右の耳たぶが欠けた男」を追いかけて東京を彷徨う物語。
時代は新型コロナウイルスのパンデミックが決定的なものとなった2020年3月。善也が勤務する出版社は自宅作業に変わっており、外を歩く人の数はまばらでマスクをつけている。一方、善也はコロナに対する危機意識はまだ薄いようでマスクをつけていない。また人の多い夜のクラブで楽しそうに踊っていた姿が冒頭で描かれており、気にする人としていない人の意識が極端なのが、2020年の空気を思い出させる。

善也には父親がおらず、教団のお方(神様)が父親なのだと母親(井川遥)から教えられてきた。劇中では母との関係に悩んでいる善也が、父を求めて彷徨う姿が、神と人の関係と重ねて語られる。
同時に2020年のコロナ禍の始まりに感じた「この世界で何かとんでもないことが起きているのではないか?」という気配が全面に打ち出されており、人影が消えた東京の風景の不穏さが何より印象に残る。
小説の舞台が1995年で、宗教がテーマの物語だったため、オウム真理教が同年の3月20日に起こした地下鉄サリン事件のことをどうしても思い出してしまう。
当時、筆者は浪人生で高田馬場にある予備校に電車で通っていたため、自分もあの事件に巻き込まれていたかもしれない。そう考えるとゾッとするのだが、一方でそんな大事件が起きた後も、自分も含めた多くの人々が、学校や会社に地下鉄で通っていたことが当時はとても不思議だった。
宗教テロに直面してピリピリとした緊張感が続いていたが、日常は変わらず続いており、同時に高揚感のようなものも感じていた。この「非日常の中の日常」とでも言うような感覚は、2020年のコロナ禍にも強く感じた。地下鉄サリン事件とコロナ禍を重ねる描き方に対して違和感を持つ方も多いかもしれないが、2つの時代の東京の空気を覚えている筆者にとっては「これしかない」という描き方だった。




















