アニメ『違国日記』は朝&槙生の成長にどう向き合ったのか 喜安浩平が明かす脚色術

アニメ『違国日記』喜安浩平の脚色とは?

 ヤマシタトモコの漫画を原作とするアニメ『違国日記』は、両親を交通事故で失くした少女・田汲朝と、その叔母で小説家の高代槙生の同居生活を描く話題作だ。2人の日々を繊細に描き、他者との距離感について魅力的に描写する本作の制作について、『違国日記』という作品の持つ魅力やアニメの媒体としての性質を踏まえて、構成・脚本を務めた喜安浩平に話を聞いた。

シリーズ全体で、朝と槙生が互いに成長していく

——アニメ版『違国日記』の企画にどの段階から声がかかったのか、喜安さんが参加するまでの経緯について教えてください。

喜安浩平(以下、喜安):お話を伺う以前に、制作会社・朱夏の佐藤由美プロデューサーとは面識があって、別の企画を進めようとしたんですが、それはタイミングの問題もあって実現しなかったんです。それからしばらくして、また改めて佐藤さんからご連絡を頂いて、『違国日記』のお話を受けて……という流れなので、プロデューサーの上田智輝さんと佐藤さん、監督の大城美幸さんの3人が揃ってるだけで、それ以外は何もない状態でした。僕は企画の話を頂くと、断るにしろお引き受けするにしろ、長文で感想メールを返すのですが、『違国日記』に関しては要約すると「面白かった」ということを非常に長く、字数をかけて、前向きな内容でお返ししたと記憶しています。

——初めて『違国日記』を読んだときはどんな感想を?

喜安:話が進むにつれてテーマが豊かに育っていくところが特徴的だと感じました。もちろん原作のヤマシタトモコさんの中で最初からイメージしている結末までのプランがあったんだと思うんですが、巻を経るごとに、1本の幹にたくさんの芽が出て、枝が伸びるように大きく広がっていくさまが非常に魅力的でした。だから、お話をただ追っていくだけでも十分面白いんですけど、それぞれのキャラクターの生き方や言い分などが随所に、いい意味で“整理されない”まま自然発生するように、次々と表出してくるところに、飽きずに読み続けられる魅力があるなと思いました。

——そういった『違国日記』の魅力を1クールのテレビアニメに落とし込むうえで、どんなことを意識していたのでしょうか? 

喜安:脚本を作っていた頃はまだ原作が連載中だったので、どうしてもアニメの結末を、原作の結末よりも早いところに設定しなければならなかったんです。でも、ちょうどその頃の最新巻が朝にとっての一つのクライマックスのように描かれていたので、シリーズの構成で悩むことはありませんでした。そこで終わらせるしかないと思ったからです。朝だけでなく槙生の成長曲線も明確に表現される展開だったので、アニメ版でクライマックスに相当する部分は、もう揺るぎようがありませんでした。

——どのように各話で起伏をつけていったのでしょうか?

喜安:まず、最初の第3話くらいまでは朝と槙生の関係がどう構築されていくかという、大きい意味でのセットアップの時間として設定しました。視聴者の皆さんに朝と槙生のキャラクターを知ってもらい、興味を持ってもらうということを意識して構成しています。第4話からは朝が高校に進学することで部屋の外に出ていき、朝を通して外側の人が続々と登場するフェーズに変わります。そこからは朝を通して見る外の世界を、部屋の内にいる槙生が受け取り反応する、朝にとってのメンターのような役割を担っていきます。しかし最初から最後まで槙生が立派なメンターというわけでもなく、第3話までのところで欠点のある人というセットアップができているため、第4話以降で槙生が主張する言葉から、その裏にあるもの、あるいは槙生自身も揺れているということが視聴者は汲み取れるようになっています。朝が外に行くことによって、槙生が自分自身では選ばないような外の世界に巻き込まれていき、槙生も成長していく。自分の状態や置かれている境遇を受け入れるにしたがって、槙生自身も姉や自分の存在を問い直すようなフェーズへと移り、シリーズ全体で朝と槙生が互いに成長して見えることを期待して作っています。ただそこばかり押し出すと説教臭くなってしまうので、ぼやかしながら描いてもいます。

——第3話までのセットアップによって第4話以降の展開に広がりが生まれているんですね。

喜安:とはいえ、後半は前半に比べて重い話も多いので、視聴者が感情を追って楽しめるように表現するのは難しかったかもしれません。特に、第8話で朝が両親の死を完全に認めて大泣きする場面がありますよね。そこで初めて“本当のスタートライン”に立ったともいえるのですが、あの状態から最終話まで持っていく流れは、原作に忠実にやってはいるものの少し大変でした。どうしても朝が自分自身と向き合って悶々とする時間が増えてくるので、観ていて共感はできても、アニメとして楽しめるのかということについて考えると、非常にバランスが求められる作業だったと思っています。それから、セットアップの点でいえば朝と槙生の関係だけでなく、えみりと朝の関係についても第3話で提示しています。第3話で初登場したえみりのインパクトは、発する言葉は少なくても非常に雄弁で、劇的なものになっているんですが、一方で第4話以降は朝とえみり2人ともケロっとしているんですよね。第3話で力強いものを提示しているからこそ、そのギャップによって、10代半ばの女子学生の友情のあり方みたいなものが、原作から削った部分がありつつも、想像も含めて楽しめるものになっていると思います。第3話でセットアップを行っているので、特段その後を何度も強調せずとも少しずつ2人の進むべき道が離れていくとか、それでもバラバラになってるわけではないということについて、むしろ語らないことで理解が深まるのではないかと考えて描写しています。ただ一方でアニメシリーズは朝の成長曲線を描くことに主眼を置いているので、その主題にえみりが自然に参加していく様子を描く必要があり、その部分はむしろわざとらしくならない範囲で強調したつもりです。

——アニメ版が朝を軸に構成されているというのは強く感じました。たとえば第4話で槙生が朝に強く当たってしまうくだりは、原作では彼女のクリエイター気質なパーソナリティをうまく表していたと思いますが、アニメではそこが控えめになっていたと思います。

喜安:このシリーズの主題に必要かどうかと考えると、槙生のストレスの感じやすさについてはそれ以前の描写で十分伝わると思ったので、この話数では朝が1人でご飯を食べて泣き出すところを繊細に描くことが大事だと思い、脚色しました。朝が泣き出す原因が、2人のすれ違いにあるように見えるよう焦点を絞り、槙生のほうの描写を減らしたんです。朝を置き去りにしてご飯を1人で食べさせる時点で十分残酷に感じたといいますか、親としての僕の経験から、子供が1人で食卓でご飯を食べているところを想像したらそれだけでもしんどいと思ったので、そこにクライマックスが来るように構成したかたちです。

各話のまとまりとシリーズ構成

——中盤以降で徐々に重い話を展開していく流れがごく自然に作られていますが、シリーズ構成としてどのようなことを意識されたのでしょうか?

喜安:各話の中で構成が前に出過ぎないようにはしています。「ここでカロリーの高いシーンが来る」となったときに、その山がなだらかすぎないかとか、逆に起伏が意図的すぎないかとか、そういったバランスは常に意識していました。あまり構成が立ちすぎても『違国日記』の雰囲気から外れる気がしていて、特に第2話以降はそこを重視しています。第1話はどうしても原作を知らない方の足を止めなきゃいけないので、少し強く脚色しようという意識があったんですが、第2話以降はやりすぎると『違国日記』の良さからどんどん離れていってしまうので、原作を踏まえて加減しました。話の終わりに引きを作ることだったり、構成ばかりを気にしてしまうと、必要のないクリフハンガーまでかけなければならなくなってしまいますので。

——たしかに、「引き」を強調しすぎるような構成は『違国日記』らしくないなと感じます。具体的にはそういった脚色をしてしまうと『違国日記』のどういう良さが損なわれてしまうのでしょうか?

喜安:もちろんテレビ放送なので、“観た瞬間が面白い”という瞬発力みたいなものは常に必要だと思っているんですが、『違国日記』の面白さは瞬発力に頼らないということだとも思うんです。原作漫画の1コマ1コマに魅力があるから、そういう意味ではもちろん瞬発力もあるんですが、ヤマシタさんは、朝が直面した問題、あるいは槙生が抱え込んだ課題というものが、一つひとつ明確に片付けられるものではないように描いていると思うんです。なのにアニメが「朝はどうなる? さあ次回はどうなる」というふうに「人生は冒険だ」みたいなハラハラするような脚色をしてはいけない。『違国日記』が描いているのは、一生付き合っていかなければならない問題かもしれないということ。それをヤマシタさん自身が常に片隅に置いて原作を描いていらっしゃいます。だからアニメでも話数単位で極端に盛り上げていくことはできない。話数ごとに盛り上げようとすると、問題にぶつかる衝撃と同時に解決する安心感を視聴者に与えていかなければならなくなってしまいます。その、安心感を与えていくという発想自体が、きっと『違国日記』の良さから少し外れていくことなんです。心穏やかなシーンや心洗われるようなシーン、優しいシーンがいっぱいあるんですけど、でも、それがあるからといって何かが解決するわけではなく、彼ら彼女らがずっと生きていく上で、その傷は常にちょっとだけ本人を痛ませている、という感じは残さなきゃいけないんです。これが例えばサスペンスやミステリーだったら、1話単位で「犯人はあなたです」と言って「やっぱり自分が予想した通りだった」という達成感や安心感を糧に次に進めるんですが、『違国日記』にはそれがない。「それが人生だ」という感覚があるので、シリーズ構成の中で、話数単位の構成らしきものはあまり極端につけたくないと思いました。

——原作の第6巻第28話では、槙生が「彼女(朝)が大学入るか成人するまでだし数年がんばるよ」という発言をした際に、樹乃さんが「それは甘くない?」と返したように、本作では明確な区切りを否定し関係が続いていくことを示した場面が印象的です。そういったメッセージがまさにシリーズ構成の仕方に現れていると、今のお話を聞いて思いました。

喜安:エンタメ作品である以上、やっぱり1話1話でカタルシスを生んで「次も観たい」と思わせるのは必要なので、区切りをつけないというのは非常に矛盾する考えではあるんですけどね。その中で、「来週どうなるんだろう」よりは「今週はここまで観れた」という感覚が「次も観よう」というモチベーションにつながっていくような形でバランスをとっていました。

——たしかに露骨な引きこそありませんが、各話で綺麗にまとまっていて毎話穏やかな満足感のある作品になっていると感じました。各話のまとまりに関して、動詞1つで命名されているサブタイトルが印象的ですが、これはどのように作られたのでしょうか?

喜安:サブタイトルは脚本を書いた後から付けました。各話の主題は、その話数の漫画原作範囲で主題になっているものを基本に設定しています。ただ、いくつかの話数はアニメ化の際に取捨選択した部分があるので、その構成にあわせてサブタイトルをつけました。

——第3話の「捨てる」では槙生の手紙の話と遺品整理の話を通じて、執着と捨てることについて別々の話を見事にまとめていたと思いました。漫画の複数話分をアニメの1話分で描くということで、原作にある主題を脚色しまとめる上で意識されたことはありますか?

喜安:アニメで複数の主題を1つにまとめているというよりは、ヤマシタさんの原作が常に何本もの主題の糸が切れずに、時にずっと走っていて、それが然るべきタイミングで浮上してくるように描かれているんですね。『違国日記』の原作では1つの主題が数話どころか数巻にもまたがっているケースもあります。それが漫画原作の醍醐味だと思いますし、ぜひ原作も読んでほしいと思っています。昔なら娯楽がテレビくらいしかなかったから当たり前だったと思うんですが、今わざわざ週に1回、その時間にテレビの前に座ってくれるというのは非常にありがたいことだなと思っていて、作り手はその貴重さに応えていかなければならない。だから、関連はしつつも少し離れたところにある主題を同じ話数に持ってきてつなげることで、その主題が整理されていくところをお見せするようにしています。原作の連載の中でも「このターム、このターム」といううっすら区切られているものはあるので、そこを基準にしながら組み立て、今回の話数では結論とまではいかなくても少し整理して次に行き、少し整理して次に行くというのを繰り返していっています。それでも先ほど言ったように問題は残ったまま続いていくということを提示していく必要がありました。アニメ版の場合では、誰のどのエピソードも、それがどうやったら最終話の朝という中心にたどり着けるか、それぞれのキャラクターが寄り添えるかということを考えなければいけないので、そこに合わせて脚色しています。

——各主題のウエイトの調整についてもう少しお伺いしたいと思います。第7話のファミレスの場面で、槙生が他人の話を聞かないことについて朝が愚痴をこぼしていて、それに対してえみりが「それってさ、発達障害ってやつ?」と返していました。このセリフはバックグラウンドでかすかに聞こえる小さな音量に調整されていましたが、あそこはどのような意図があったのでしょうか?

喜安:あのセリフ自体は僕ではなく大城監督のディレクションによるものですが、ああいったセリフは、音でしっかり読み上げてしまうと漫画で読むよりも強い響きになってしまい、「それが言いたかった」ようになってしまう。でもこの場面は、『違国日記』という作品において、今まで触れてこなかった部分に触れることで、作品と世の中の接点が広がるきっかけになった部分でもある。だからそのセリフを、強い響きになってしまうからといって、なかったことにしないほうがいいと考えたのだと思います。それは原作が世の中とコネクトするときに選んだ言葉だし、そうしたことでむしろたくさんの共感と支持が得られたところでもあるので。セリフは削りたくないが、かといって音ではっきり言ってしまうとそれが主張したいことであるかのようになってしまって、違う受け取り方をされるのではないかということを考えたバランスで、ああいった表現になったのだと思います。

——監督とのやり取りの中でより良い表現が生まれるんですね。

喜安:監督とやり取りしない現場はないですよ。とはいえ、何回も繰り返し直したような回はほとんどなくて、すんなり進んだなと思っています。構成に関して大きな作業になったのは、話数が1話増えたことだけですね。もともとは12話構成で作っていたんですが、途中で13話になりました。今の制作状況を思えば大城監督はよく1話増やすことについて前向きだったなと思うんですが(笑)、当時は12話でやるとどこかで意図しない駆け足が出ててしまうから、13話のほうがいいのではと申し上げました。一旦12話で終わらせるパターンも書いたんですが、「やはりこれは13話でやるべきだろう」ということになり、プロデューサーからも「13話で大丈夫です」と言ってもらえたので作り直したというのが一番大きな変更でした。それ以外は基本的には細かいセリフの足し引きや原作に合わせた調整がほとんどですね。監督と「この言葉について議論が紛糾して……」みたいなことはなかったと思います。

——視聴者が駆け足に感じないように気をつけていたことなどはありますか?

喜安:やりとりをなるべく端折らないようにしたのが結果そうなったというだけで、「駆け足にならないように」とは思っていないんです。前提として、原作を読んだことがない人にめがけて作ってはいるので、シナリオとして読んだときに急いでいなければOK。原作を読んでいる方からすると「結構飛ばしたな」と思われるかもしれないですし、もちろん原作こそが正解だと思っていますが、アニメで『違国日記』を観て面白いと思った方が原作までたどり着くのが一番いいサイクルだと思っているので、まずはアニメとして面白くなるように作っています。ただこれは原作の知名度や歴史にもよる話で、作品によっては視聴者がすでにキャラクターを知っていることを前提に作ることもあるとは思います。今回はアニメを観て、それからぜひ原作を読んでくださいと思っている部分があるのでこのような形でアニメ化しました。

——原作への流入を促すために、何か意識されたことはありますか?

喜安:脚本として特別に意識したことはないです。アニメとしての完成度、アニメのシナリオとしての完成度がよければ、自然と原作を読みたくなるだろうという考えです。制作の中でも、特に脚本家の仕事は一番手前のほうなので、そこから過程を進めていく中で少しずつ変化していく可能性があるから、ひとまず脚本の段階では手を広げすぎないほうが僕はいいのではないかと思っています。

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