『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』のAI描写と藤子・F・不二雄の予見性を考察

『映画ドラえもん』シリーズの通算45作目となる『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』が2月27日から絶賛公開中だ。4作目の『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』(1983年)を43年ぶりにリメイクしたもので、AI(人工知能)や海洋環境の汚染といった現在ならではの話題を盛り込み、しずかちゃんとバギーの関係ともども大きくアップデートされた新作になっている。
本作を観終わった人が、グッズ売り場で見かけて一番欲しいと思うのが、メディコム・トイ製の「しずか&水中バギー」セットだろう。主人公ののび太やドラえもんよりも先に来るのは、映画の中でしずかちゃんと車のバギーのペアが主役級の存在感を見せるからだ。

映画のストーリーは、藤子・F・不二雄の漫画や43年前のオリジナル版と大きくは変わらない。夏休みに入ってどこかに遊びに行きたいと、のび太やしずか、ジャイアンにスネ夫といったいつものメンバーが話し合ったものの、海と山で2対2になってまとまらない。そこでドラえもんに相談すると、海と山の両方が楽しめる場所があると言われて、コンピュータが搭載されたバギーに乗って乗って海底へと向かう。
43年前の映画では、のび太としずかが海を挙げ、ジャイアンとスネ夫が山を主張していたが、新作ではのび太としずかが山を支持しているのが気になるところ。泳げないのび太だけに、海よりも山に行きたいと言うほうが自然だという判断からだろうか。また、旧作はバギーが2人乗りだったのが、新作では後席ができて5人座れるようになっている。令和ならではのコンプライアンスというやつかもしれない。
旧作では、そんな2人乗りのバギーに5人が乗って「コレジャ重クテ動ケネエ」とゴネるバギーに、しずかちゃんが「大変でしょうけど頑張って」とお願いすると、勇んで発進する現金さを見せるところからしずかちゃんとバギーの関係が始まった。新作は、ストーリーが進んでいく中で、しずかちゃんがバギーを単なる道具ではなく友だちのように扱い、それにバギーが心惹かれていく感じになっている。

そもそもコンピュータのバギーには“心”というものは存在していない。だから、海底にたどり着いた一行から、ジャイアンとスネ夫がバミューダ海域で見つかった財宝を積んだ船を探しに行こうと、バギーを駆って抜け出したとき、真っ暗で高圧の深海に体を適応させる「テキオー灯」の効果がいずれ切れることが分かっていながら、注意せず命令に従って車を走らせた。
冷静といえば冷静だが、冷酷といえば冷酷なバギーの言動に怒るジャイアンやスネ夫をさえぎり、しずかちゃんは「命令されたから走っただけじゃない!」と言ってバギーをかばう。その後も、水の中だから常に洗われている状態であるにも関わらず、バギーのボディを磨いてあげたり、緩んでいたホイールのネジを締めてあげたりする。旧作でも、バギーにヒトデをプレゼントして喜ばれているが、新作は、バギーを友だちのように慈しむ気持ちがより強くなっている。
自分のことを何くれとなく気にしてくれるしずかとコミュニケーションを重ねていくことで、バギーに“心”のようなものが芽生え、計算だけでは絶対にあり得ない言動をとるようになっていく。そこが、『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』のひとつの見どころだ。

矢嶋哲生監督も、映画のパンフレットで「冒険が進むにつれ、だんだんと人間っぽくなる水中バギーの動きに注目してほしいですね」と話している。旧作にはなかったヘッドライトを着けたことで、バギーに表情のようなものを与えた。しゃべり方も旧作のロボット調子から普通の人間のようなものに改め、進展に従って感情らしいものを加えていった。しずかちゃんとのコミュニケーションを通じて起こったバギーのそうした変化が、クライマックスシーンでの感動と感涙の展開に繋がる。映画を観終わって、バギーとしずかちゃんのグッズを手元に置きたいと思うようになるのも分かるだろう。
クライマックスシーンでは、バギー自身が“バグ”と呼んでいるAIらしからぬ感情的な思考や言動が、こちらは頑なにプログラムされた命令を遂行しようとする別のAIとの違いを浮かび上がらせる。結末は原作の漫画や旧作の映画と同じだが、もしも原作者の藤子・F・不二雄が存命だったら、43年前とは比べものにならないAIの発達ぶりを見て、対話から相互理解が生まれて誰もがハッピーになる結末に変えたかもしれない。





















