いまドラマ化される意義を獲得した台湾版『模仿犯』 中居正広主演『模倣犯』との違いは?

台湾ドラマ版『模仿犯』を映画版などと比較

 だが、宮部みゆきが映画版に否定的だったという噂があるように、この作品には一点、物議を醸すことが避けられない部分がある。それは、劇中で描かれる凶悪な犯罪に、何らかの意義が含まれているような可能性を描いてしまったところだ。宮部は犯人をカリスマ的に描きながらも、最終的に矮小な存在に落ち着かせている。それは、考えてみれば当たり前のことだ。自分よりも力の弱い存在を執拗にいたぶって悦にいるような行為は卑劣でしかないからだ。

 もちろん、映画版にも原作の筋立てや要素は生きている。だがその奇妙な着地は、身勝手な凶悪犯罪に超越的な中身などないという原作の姿勢に反発し、奥行きを持たせたかったからだと考えられる。だが、例えば『バットマン』における、狂気によって世俗の常識を超越した犯罪者ジョーカーが、果たして女性だけを狙うような、美学に外れた反抗に及んだりするだろうか。

 結果として映画版『模倣犯』は、卑俗な犯罪と超越的な悪という、二つの噛み合わない要素を無理に繋げてしまったのだ。批判されるべきところがあるとすれば、この点に集約されるのではないだろうか。女性をターゲットにした犯罪や、女性全体に対する男性のヘイト行為は、近年大きな社会問題として認知されるとともに、深刻化してきてもいる。その観点で映画版を見直してしまうと、なおさら瑕疵が大きく感じられてしまうのだ。

 その意味において今回のドラマ版は、自覚的にこの犯罪の性質を捉えていると感じられる。被害者に落ち度があると言って責める人々や、犯人の残忍な凶行に対しシンパシーを感じる男性たちが現れ、新たな事件が発生していく様子を描いているのだ。原作ではタイトルでもある「模倣犯」という言葉がサスペンスとして重要なギミックとして使われていたが、ここでは社会的な意味へと還元されている。

 本作において強調されているのは、被害女性が犯人の嗜虐心や自己顕示欲を満たすための道具として利用されているに過ぎないという点だ。ルビー・リンが演じる報道番組のキャスター、ヤオ・ヤーツーは、犯人が女性を“モノ”として扱っていることが分かる言動に強い怒りを感じ、激しく罵倒する。そして彼女が告げた、「お前なんて、他人を利用することしか取り柄のない、つまらない人間」という言葉が、犯人の心に最も強い“くさび”を打ち込み、それが最終局面で犯人の動揺を誘うことになるのである。

 このように、女性憎悪が大きな社会問題として注目されるようになった現代に、『模倣犯』という題材はより強い輝きを放つのではないか。そして、この点を強調したことによって『模仿犯』は、いまドラマ化される意義をしっかりと獲得したといえるだろう。その意味ではおそらく、さまざまな改変があるにせよ、宮部みゆきと今回のドラマの制作陣は、根底の部分で同じ方向を向いていると感じられるのである。

■配信情報
『模仿犯』
Netflixにて配信中

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