『ANORA アノーラ』が描く“不完全な現実 鮮烈なラストシーンの意味を徹底考察

カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受賞したほか、さまざまな映画祭で賞を獲得し、第97回アカデミー賞において、作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞、編集賞の5部門で受賞を果たした、ショーン・ベイカー監督の『ANORA アノーラ』。ニューヨークを舞台に、一人の女性の夢と失墜を描き、強い余韻を残す内容が、大きく評価されている。
多方面から絶賛の声を浴びている本作『ANORA アノーラ』だが、その一方で物議を醸し、賛否の声を巻き起こしているのが、その鮮烈なラストシーンだ。極限的な感情を描いた長回しでの光景が、さまざまな感情や意見を掘り起こしている。ここでは、多くの観客を惹きつけ、また動揺もさせた物語と演出を振り返りながら、最後の場面で、いったい何が起こっていたのかを考察し、本作の核心へと迫ってみたい。
※本記事では、物語の展開を一部明かしています。ご注意ください。
iPhoneを駆使してトランスジェンダーのセックスワーカーたちの体験を追った『タンジェリン』(2015年)や、世界最大規模のリゾートパークの近くに住みながら、貧しい生活を余儀なくされる親子の姿を描く『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017年)など、社会の周縁に追いやられる人々の視点から、挑戦的な題材に次々挑戦し、賞賛されてきたショーン・ベイカー監督……その最大の特徴は、映像や展開に込めた「リアリティ」にこそある。現実に横たわる問題を、現地の生々しい映像や主観的な感覚を通して、観客に体験させるのである。
そんなベイカー監督の作風からすると、本作はかなり娯楽性をとり入れ、劇映画としての存在感を増している印象がある。『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』では、生きていくことさえ難しい現実と、少女のテーマパークへの憧れという要素が対比されることで、ドラマティックな救済を描くことなく、しかし映画的なダイナミズムとカタルシスが発生するラストへとたどり着き、観客を驚かせた。本作『ANORA アノーラ』では、そんな対立構造が物語にも深く絡み合い、「シンデレラストーリー」と「現実の格差」が、さらに強く対比される展開が用意されている。
本作でアカデミー賞主演女優賞を獲得したマイキー・マディソンが演じたのが、主人公アノーラである。ニューヨークのストリップクラブでダンサーを務めて生計を立てている彼女は、ある日、ロシア語が少し話せるという理由から、ロシアの大富豪の若い御曹司イヴァン(マーク・エイデルシュテイン)に、店で指名を受ける。ストリップダンサーと客という関係から知り合った二人は、金銭を介した事実上の愛人契約を結ぶこととなり、さらにはラスベガスで衝動的な結婚をするのだった。
しかし、大豪邸での優雅な日々は長く続かなかった。ロシアでイヴァンを待っていた両親は結婚を認めず、アメリカに住むアルメニア系の司祭と、その手下2人を差し向け、結婚を無効にするよう求めるのだ。実家からの圧力に追いつめられたイヴァンはパニックに陥り、邸宅から逃走して行方をくらました。不穏な訪問者たちに必死に抵抗していたアノーラは、彼らのイヴァン捜索に否応なく参加させられながら、夫を問いつめて結婚の誓いを守らせる目的を果たそうとする。
ロシアの富豪については、作中でとくに詳述はされていないものの、旧ソ連時代からの財力を持ちながら、現体制においても政府と癒着することで利益を確保する「オリガルヒ」であることが想像される。その内実がそれほど描かれないのは、アノーラの視点で描かれる主題から外れてしまうためだと理解できる。それでもロシアという要素が強調されるのは、やはりロシア語圏にルーツを持つアノーラが、アメリカという地においてすら格差の現実に直面する状況を見せる意味が大きいだろう。
ブルックリンのロシア人街「リトル・オデッサ」のあるブライトン・ビーチが主要な舞台になるほか、オリガルヒの身辺の世話をコーカサス地方出身者(アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン人など)が、旧ソ連時代からの関係で担っているケースがあり得ることなど、本作はアメリカ国内に、普段は光の当たらない局地的なパワーバランスが存在することを拾いあげる。このような“周縁部”からの視点こそ、ショーン・ベイカー監督の真骨頂だといえる。その“力”は強大だと見え、アルメニア系の教会の司祭が、神聖な職にありながら、しがらみと権力に従って結婚の誓いを破らせようとするところに皮肉がある。
責任を放棄して逃げ出すイヴァンの態度が反感を買うのは当然だが、裏切られたアノーラもまた軽率と言わざるを得ないところもある。激情家ながら知性もある、本来の彼女の目を曇らせたのが、「シンデレラストーリー」への夢だ。厳しい生活を送り、継母などの意地悪に耐えながらも、“王子さま”に一目惚れされプリンセスになるという物語に淡い憧れを抱いていた彼女は、それを体現できる絶好の機会を前に冷静ではいられなかった。観客の多くは、ベガスでイヴァンとともに浮かれる彼女の姿に不安をおぼえるだろう。
典型的な古いディズニーのアニメ映画ならば、「その後、いつまでも(エバー・アフター)……」という、幸せな言葉で締めくくられるラストシーンで物語は途絶することになるが、現実の物語にはその先がある。ここでの“プリンセス”は“王子さま”に裏切られ、そのことを問いただすために、結婚を無効化しようとする“王族”の配下たちと行動を共にし、夜の街を徘徊するという惨めな物語を味わうハメになるのだ。
このシンデレラストーリーを崩壊させるのが、ショーン・ベイカー流の残酷な現実だ。多くの観客が予想しているように、この結婚はすぐにも破綻し、アノーラは格差の壁の前で打ちひしがれ、富豪たちにとってわずかな金銭を与えられて泣き寝入りするしかない。イヴァンやその母親にアノーラは悪態をつき、せめてもの反撃をおこなうのだが、イヴァンの父親がそれを見て大笑いするのが象徴しているように、そんな反撃は彼らに深刻な傷を与えるものではない。何をやったところで、致命傷には届かないのである。
富豪たちの命令に従ってアノーラを追いつめながらも、力に押しつぶされる彼女に同情をおぼえていたアルメニア系のイゴールは、「君があの一族にならないで良かったよ」と声をかける。これはある意味で、観客の気持ちを代弁した言葉だろう。しかしアノーラは、「あんたの意見はいらない」と突っぱねる。ここで気づかされるのは、アノーラという、スクリーンに映し出された一人の女性は、観客の同情や憐れみをも必要としていないということだ。
あらゆるヒューマニズムもイデオロギーも、彼女の境遇を直接的には1ミリも改善してくれない。彼女に必要なのは、いま役に立つ実際的な助けや利益に他ならないのだ。そして、それを提供するのが、最後のシークエンスにおけるイゴールの行為だったということだ。もちろん、命令されれば暴力行為を厭わないイゴールは、一般的にも、アノーラにとっても理想的な相手ではないだろう。ましてや、王子さまや正義の騎士でもない。しかし、いま彼女を助ける存在は、目の前の彼しかいない。それが、ベイカー監督が提供する、夢とは対極に位置する“不完全な現実”なのである。























