『エルピス』の食事描写が意図するもの 愛してくれる誰かを必要とする人間の欲求を考える

『エルピス』の食事描写が意図するもの

 『エルピスー希望、あるいは災いー』(カンテレ・フジテレビ系)を観ていると、心の底から、いや、身体の奥底から、共鳴せずにはいられないのはなぜだろう。正しさを貫こうとするアナウンサー・浅川恵那(長澤まさみ)のことも、新米ディレクター・岸本拓朗(眞栄田郷敦)のことも、2人が一生懸命耳を傾けようとする、強い力に虐げられてきた「声の小さな人」たちのことも。これは私のことだと思わずにはいられなくなる。だからこそ、2人に向けられる、全ての言葉が突き刺さるのだ。「逃げるな、ちゃんと向き合え」「他人事じゃないぞ」と。

 本作は、実在の複数の事件から着想を得て制作された社会派エンターテインメントだ。『カーネーション』(NHK総合)、『今ここにある危機とぼくの好感度について』(NHK総合)を手掛けた渡辺あやによるオリジナル脚本。さらには大根仁が監督、音楽に大友良英、プロデューサーは佐野亜裕美と、放送前から期待せずにはいられない布陣だったが、期待を遥かに上回る素晴らしさである。本作の面白さは、それこそ第3話に登場した、永山瑛太演じる謎の男の台詞のように「言語なんて目の粗い道具だけで掬いきれるものではない」ようにも思うが、ひとまずこの「我が事として捉えずにはいられない構造」の巧みさについて、分析していこう。

エルピスー希望、あるいは災いー

 物語は、松尾スズキ演じる、現状本編とほとんど関わりのない「勝海舟を演じる時代劇俳優・桂木信太郎」によるこちら側への呼びかけから始まる。「君は自分を善人だと思っているんだろう、(中略)取るに足らない凡人であると。物事を動かす力などあるわけもないと。しかし君、それは逃げだ、善人とて戦うべき時がくる」と。まるで時代劇の1シーンかのようにモノクロだった画面は、やがて現実世界の色を纏い、カメラはぐるりと回り、その言葉を聞いている、ディレクター・岸本拓朗の空虚な目と当惑気味の笑顔を捉える。

 まず、そこで視聴者は巻き込まれずにはいられない。拓朗と一体化することによって。それからずっと、「自分のことを凡人だとも善人だとも思っていない」からさらりと受け流し、とりあえずこの場をやり過ごそうと思っている拓朗が、ひょんなことから冤罪事件に大きく関わることになり、変わっていく姿を、視聴者は、まるで自分の分身を見るかのように、見守らずにはいられないのである。

エルピスー希望、あるいは災いー

 次に印象的だったのは「吐き気」だった。また「心と身体がいつのまにか自分から遠く離れてしまい」迷子になって、恵那と拓朗が、ある日突然、「眠ること」「食べること」ができなくなることだった。特に、「飲み込みたくないものを飲み込まない。でないともう死ぬし、私」という恵那の、彼女を取り巻く世界並びにこの世界全体に対するかのような「吐き気」は、初回で描かれた働く30代女性の受難や、スキャンダルに見舞われた彼女だからというだけでなく、それこそ「ボンボンガール」のように、一生懸命作った笑顔を振りまいて、それを嫌だということさえ気づいていなかった20代の頃の蓄積であるとも言え、社会における女性の生きづらさを雄弁に語っている。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「国内ドラマシーン分析」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる