『ちむどんどん』に感じる作り手たちの挑戦 “喜怒哀楽”の混じり合った物語がスタート
新たにはじまった“朝ドラ”ことNHK連続テレビ小説『ちむどんどん』の舞台は、日本に返還される前のアメリカ統治下にあった沖縄。第1週は1964年当時、沖縄が抱えていたデリケートで重層的な状況を美しい風景のなかに溶け込ませていた。それはまるで、森の木漏れ日のような深い陰影である。
沖縄本島北部やんばる地域に住んでいる小学5年生の比嘉暢子(稲垣来泉)は、やさしい父母と3人の兄妹と一緒に明るく元気に日々を送っていた。
海、森、青空、広大なサトウキビ畑……と雄大な自然、沖縄の代表的な料理ゴーヤチャンプルー、ゆし豆腐、ラフテー、沖縄そばなどが次々出てくる。暢子はおいしいものに目はない。とはいえ比嘉家にとっては風景も食べ物も日常である。それを華やいだものに見せるのは、東京から沖縄の歴史や文化を学びに来た民俗学者・青柳史彦(戸次重幸)と息子・和彦(田中奏生)が沖縄に触れていくという視点だ。もともと、沖縄に興味のある史彦は前のめりに、珍しい情景に食いついていく。
父・史彦と比べて、和彦は便利なものがたくさんある東京が恋しくて、いささか不便な沖縄が居心地悪い。和彦は愛想が悪いが暢子がまったく気にせず、東京のおいしいものの話を聞かせてとぐいぐい接近していく。史彦と暢子は好きなものに前のめりという点で似ているような気がする。
最初は無愛想だった和彦も暢子に振り回されながら徐々に沖縄の魅力を知っていく。暢子のつくった沖縄そばを食べた和彦が「いまままで食べたなかで一番おいしい」といままで見せたことのない笑顔を見せて暢子を小躍りさせたとき、ふたりの心が強くつながったように感じた。
いまでは東京と沖縄は同じ日本だが、1964年当時は沖縄はアメリカの統治下にあり、車は右側通行(ハンドルは左)、通貨もドル。戦前は「大和世(やまとゆー)」、戦中は「戦世(いくさゆー)」、戦後は「アメリカ世(あめりかゆー)」と沖縄はそのときどきの状況に合わせて生き抜いてきた。それを暢子の父・賢三(大森南朋)は「行きあたりばったりの人生」とやや自虐的に史彦に語る。
人は矛盾のなかで生きている。豚を飼うのは食べるためだ。暢子と長男・賢秀(浅川大治)はかわいがって飼育していたアババが、食卓に肉の塊となって乗っているのを見て一瞬ショックを受けるが、賢三に「生きているものはほかの生き物 植物や動物を食べないと生きていけない。人間も同じさぁな。『頂きます』とは命を頂くこと。だからきちんと感謝しながらきれいに食べてあげる。それが人の道。筋を通すということさ」と諭され、美味しく頂く。美味しいけれど悲しい。悲しいけれど美味しい。
食後、賢三の三線の音色でカチャーシーを踊る子どもたち。「混ぜ合わす」という意味のある踊りで、両腕は空気を混ぜるように右へ左へ動かす。喜びも哀しみも、人生に横たわるすべての矛盾を混ぜ合わせるように。喜怒哀楽はそれぞれひとつひとつ独立したものではなく、混じり合ってできている。食事のとき流れたバンドネオンの劇伴は重なって滲む感情のような音がした。
比嘉家、魂の晩餐のお礼に史彦は那覇のレストランで洋食をご馳走する。お返しし合う心が麗しい。
おいしいものをたらふく食べて幸福の絶頂の暢子。父にとってもらっていた高い枝に実ったシークワーサーを自力でとれるほどに成長する。でもひとりで取れるようになったことは、背が高く、シークワサーを容易にとれる頼もしい父からの別れを意味しているかのように、ふいに賢三が倒れる。
第1話から、賢三にはメッセージ性の高いセリフが多く、そこが気がかりだったものの、それ以外は予兆はなかった。借金を抱えかなり無理しながらも、家族には辛さを決して見せなかったのかもしれない。
倒れる前に三線を弾きながら「親からの教えは心に染めて歩め」「親からの教えは数えることができない」と歌った歌詞が暢子たち子どもたちへの深い愛のようだった。
砂川智(宮下柚百)のお母さん・玉代(藤田美歌子)も元気になったことだし、倒れても
治療して元気になってほしい。