『ドライブ・マイ・カー』脚本の魅力を徹底解説 “解釈の遅延”という発想とジャンルの横断

『ドライブ・マイ・カー』脚本の魅力を解説

 劇中で描かれている、愛する人との性的な関係と自己表現が絡められた儀式は、家福にとって、あらゆる達成と結びついた、彼の人生の意味そのものとなっていた。だからこそ、家福はそれが壊されることを極度に避けようとしたし、彼女が消えることで希望を失ってしまったのだ。しかし、彼が思う達成や愛情と、音の思う達成や愛情は異なるものだったのかもしれない。彼女が語る“他とは異なったヤツメウナギ”の物語が指し示す通り、彼女は世間一般とは異なる愛し方で家福を愛していたとも考えられる。二人が異なる価値観を持っていたとしても、互いが相手を心の底から必要だと思っているのなら、その関係は「愛」と呼べるのではないか。もしそうなら、家福の人生には意味が生まれ、立ち直ることができるのである。

 しかし、死んだ妻にそのことを問いただすのは不可能である。確証が持てないのだとすれば、そうであることをひたすらに願い、信じるしかない。それは一種の宗教的な信心となり、神の救済を示す「福音」を連想させる“家福音”のイメージとともに、劇中の『ワーニャ伯父さん』のラストシーンへと結びつくことになる。

 不倫劇からフィルム・ノワール、そして人生の物語へと至る本作のジャンルの横断は、結局は家福の精神的な終着地点へと導かれる。しかし、それを知った上でもう一度本作を観たとすれば、その物語の全ては、家福の心の旅を追ったものだったと気づくはずである。そして、彼が作り上げてきた“言語を超えた演劇”は、次の世代に新しい可能性を与えることになる。

 本作のラストシーンに描かれた希望を生み出したものは、何かを信じることで生み出される力であり、それは原作には無かった一つの解答である。それが家福の勘違いであれ、身勝手な思い込みであったとしても、そこに生きるための力が宿っていて、演劇というかたちで救いを与え、言葉を超えた世界にみさきを送り出したことは確かなのである。

 宗教を熱心に信じる者も、無神論者も、何かを信じることで日々を生きている。それを自覚し、積極的にその力を取り出すことで、われわれは自分の意志で前に走り出せるのかもしれない。本作の脚本が評価される要因の最後の一つは、人の死が身近になった近年の社会のなかで、多くの人に共通する、生きるための精神的な姿勢が示されていたからだったのではないだろうか。

■公開情報
『ドライブ・マイ・カー』
全国公開中
出演:西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、ペリー・ディゾン、アン・フィテ、安部聡子、岡田将生
原作:村上春樹『ドライブ・マイ・カー』(短編小説集『女のいない男たち』所収/文春文庫刊)
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
音楽:石橋英子
製作:『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
製作幹事:カルチュア・エンタテインメント、ビターズ・エンド
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
2021/日本/1.85:1/179分/PG-12
(c)2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
公式サイト:dmc.bitters.co.jp

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる