『ドライブ・マイ・カー』脚本の魅力を徹底解説 “解釈の遅延”という発想とジャンルの横断

『ドライブ・マイ・カー』脚本の魅力を解説

 最近の濱口竜介監督の勢いが凄まじい。脚本を連名で手がけた『スパイの妻』(2020年)が、ヴェネチア国際映画祭で黒沢清監督に銀獅子賞をもたらし、ベルリン国際映画祭では監督・脚本執筆作『偶然と想像』(2021年)が銀熊賞、そして同じく監督と、連名で脚本を務めた、『ドライブ・マイ・カー』がカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞するなど、短い期間に世界の3大映画祭で、その手腕が評価されている。なかでも『ドライブ・マイ・カー』は、カンヌで一時は最高賞を期待されるほどの評判を呼んだ日本映画となった。

 そんな本作『ドライブ・マイ・カー』の脚本の魅力とは、果たしてどこにあるのだろうか。ここではその解説を中心に、何が描かれていたのかを、できるだけ深く考えていきたい。

 本作は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』を原作に、収録作品の要素を組み合わせてオリジナルのエピソードとしてまとめた、約3時間もの長尺の映画だ。基本的には関連のない複数の話を繋げたものだが、それでいて、村上春樹の代表的なモチーフである、死んだ女性に囚われ続ける男の物語が描かれていく。

 作品が長尺となった理由には、本筋の物語以外に、チェーホフの戯曲『ワーニャ叔父さん』や、好きな男子生徒の家に空き巣に入る少女の物語、ヤツメウナギの物語など、いくつかの“劇中劇”に近いエピソードが配置されている部分があるからだろう。それらエピソードは、互いに部分的な類似を見せながら、有機的に絡み合い本筋に寄り添って展開していく。観客は、断続的に表現されるそれぞれのエピソードを約3時間にわたって鑑賞することになる。興味深いのは、それらエピソードの関係が表すテーマが、やっと像を結び始めるのは、大きく物語が動く後半なのである。

 これは、商業的な娯楽作品では、基本的に避けるべき組み立てだといえよう。どんな物語なのか、どんなジャンルなのか、何が見どころなのか。これらのことが判然としない状態で長時間の映像を見続けることは、観客にストレスを与えかねない。連載漫画だって、多くの作品は第1話で、主人公の性格や、全体を通しての目的となるものを示すのが常道である。そうしなければ、受け手の感情移入が促されず、作品を楽しむことが難しくなってしまう。

 しかし、そのような心遣いは、作品をよくある平板でつまらないものにしてしまう場合も少なくない。このツボを押さえることで、物語の方向性が類型的なものとなり、表現の可能性が絞られてしまうからだ。その意味で、本作はそれぞれのエピソードが示す意味を容易には明かさず、その役割を開示することを、できるだけ遅延させることで、物語に曖昧な部分を残したまま進行していくのだ。

 そんな構造は、劇中の一場面にも見られる。西島秀俊演じる主人公の家福(かふく)は、自分の運転手みさき(三浦透子)とは、最低限の会話しか交わさない関係だったが、第三者に「彼女の運転はどうですか?」と訊ねられ、そのシフトチェンジのスムーズさや、車に乗っていることすら忘れてしまうほど快適だと、正直に答える。その横で聞いていたみさきは、歯の浮くような賛辞を贈られた嬉しさに表情を変えないよう耐えているように見える。これまで二人の関係が冷ややかだったからこそ、その場面はほほえましく感じられるのだ。

 注目したいのは、その直後、みさきが突然移動して画面の枠から外れてしまうという演出だ。彼女は、いたたまれなさを誤魔化すために画面の外で犬を撫で回すのだが、その事実は、この場面の最後にカメラが彼女に向けられるまで、観客には分からないままである。

 終わってみれば、この一連のシーンは“家福とみさきの精神的な距離が縮まるきっかけ”を生む描写だったことが分かるのだが、それは彼女が犬と戯れる光景を映すことで、やっと確定し、観客は納得することになる。それが見えない時点では、この一連の描写は十分に“意味づけられない”ものとして観客に投げ出される。つまり濱口監督は、シーンの意味を最終的には明示しながらも、それを意図的に遅延した演出をしているのである。そしてそれは、この作品全体や脚本にもいえることなのだ。しかし、なぜそんなことをしなければならないのか。

 アメリカの作家スーザン・ソンタグは、著書『反解釈』において、映画についての刺激的な論考を記している。そこでは、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督作品『沈黙』(1963年)で、異国の夜の街を走る戦車を窓から女性が眺める一場面が例に挙げられる。ある者は、このシーンについて、長い砲身を持つ戦車を男根的なイメージとしてとらえ、男性の暴力に怯える女性の心理がここに表現されていると解釈できると述べるかもしれない。しかしそう“解釈”することで、その場面は一気に映像としての魅力を失うのだと、ソンタグは指摘する。

 映像は、フレームが切り取った世界をありのまま映し出すものであり、そこには無数の情報が存在する。しかし、そこに登場する戦車を、男根をイメージしたものと解釈した場合、そのシーンは女性の心理を記号として表したものに過ぎず、映像はただそんな単純な記号を表現しただけの貧弱なものとなってしまうと、ソンタグは主張するのだ。ソンタグは、ここであえて映像を解釈せず(反解釈)、映像をありのまま受け取ることで、その豊かさを維持できるのだと言っているのである。このような考え方は後に、背景や作家の意図を除外して画面に映っているものだけを論ずる評論の形態に発展し、日本でもそれは蓮實重彦らに代表される「表層批評」として映画批評の一つのメソッドとして扱われるようになった。

 しかし、物語という軸がある劇映画において、完全に解釈を退けるという態度は、現実的ではない。物語が存在し、監督の思想や感情がそこに反映している限り、映像にそれが影響することは避けられないからである。しかし、「表層批評」が意味がないものだと断じるのは早計だろう。その態度は、映画の映像としての魅力を追い求めるものであり、作り手自身がそういった魅力を自覚的にとり入れることで、映画にさらなる映像の力を与えたいと考えている場合もあるからである。そして本作こそ、その例に当てはまる映画だと考えられるのだ。

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