「2018年の日本映画」最大の事件 『寝ても覚めても』を体験/再体験せよ

『寝ても覚めても』を体験/再体験せよ

 昨年、日本国内で濱口竜介監督『寝ても覚めても』についての話題が盛んに飛び交ったタイミングは2回あった。1回目は、同作がコンペティション部門に選ばれたカンヌ映画祭が開催された5月。ご存知のように、そこでパルムドールを受賞したのはコンペティション部門にノミネートされていたもう1本の日本映画、是枝裕和監督『万引き家族』だったわけだが、初の商業作品(という括りが濱口竜介作品においてあまり意味があるとは思えないが)でいきなり世界各国の巨匠や俊英たちと競い合うことになったこと自体が快挙であった。ちょうどその時期、フランスでは前作『ハッピーアワー』も劇場公開されて、日本国内以上の動員(『ユリイカ』2018年9月号によると14万人以上)を記録。濱口竜介は新進気鋭の映画作家として国外で認知されるだけでなく、商業的な成果も残しつつあるのだ(『寝ても覚めても』も、台湾や香港やブラジルでの海外公開に続いて今年フランスで公開されてヒットを記録)。

 そして言うまでもなく2回目は、『寝ても覚めても』がカンヌでのワールドプレミアから約4か月を経て、ようやく日本で公開された9月のこと。ソーシャルメディア上では、過去に濱口竜介作品を観てきた人、本作で初めて観た人を問わず、前評判を超えるその作品の卓越性に対して驚きの声が溢れることとなった。そのタイミングで印象的だったのは、ちょうど同日の9月1日に公開された三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる』を前後に劇場で体験し、その興奮と合わせて言葉にしていた人が多かったことだ。映画好きの間で頻繁に名前が挙がる自国の監督が長らく固定化していた(例えば、是枝裕和や黒沢清が国外の映画祭での受賞などをきっかけに広く注目されるようになったのはもう20年以上前のことだ)日本にあって、『寝ても覚めても』と『きみの鳥はうたえる』の「同時公開」は、間違いなく新しい時代の到来を告げる「事件」だった。

 3月6日にリリースされた『寝ても覚めても』のBlu-ray/DVDは、半年前のその「事件」を体験し損なった人にとってはもちろんのこと、その真価を改めて検証をする上でも格好の機会となるだろう。実際のところ、数々の参照点を含めて「語りしろ」の多さというのは濱口竜介作品の大きな特徴であり、『寝ても覚めても』もその例外ではない(本作では作中に出てくる牛腸茂雄の写真やチェーホフとイプセンの演劇が鍵にもなっている)。特に『寝ても覚めても』は物語の本筋があまりにも(メロ)ドラマティックで、終盤には(物語においてもそのビジュアライズにおいても)俄かには信じがたい出来事が続くので、初見時は呆気にとられているうちにエンドロールを迎えたという観客も多いはず(自分はそうだった)。今回のソフトに収録された、監督とプロデューサー山本晃久と『ハッピーアワー』の評論だけで一冊の本を書き上げた三浦哲哉の3人によるオーディオコメンタリーや、監督とキャスト陣によるビジュアルコメンタリー(Blu-rayにのみ収録)を手がかりに、その作品世界を再訪することで新たに気づかされることも多い。

 もっとも、『寝ても覚めても』は決して難解な作品でも、解釈のバリエーションの多さに戸惑うような作品でもない。1人の女が「1人目の男」と出会い、それから2年と少し経って「同じ顔をした2人目の男」と出会い、さらにその5年後に「1人目の男」と再会し、その後……という約8年間の年月を跨いで描かれるラブストーリー。それがいわゆる巷に溢れている他のラブストーリーと似ているかどうかは別として(似ている部分はほとんどない)、言葉本来の意味において純然たるラブストーリーであることは間違いない。また、そこでの主人公の行動原理に共感を覚えるかどうかは別として(少なくとも男性は唖然とする人の方が多いのではないか)、作中における時間は直線的かつ不可逆的に流れていく。主要キャラクター3人の友人である周囲の人々の言動にも、何ら謎めいたものはない。序盤のクラブでのシーンを筆頭に、作者の意図から外れてリアリティが破綻しかけているいくつかの箇所が気にはなるものの、本作において「リアリティ」はさほど重要ではないだろう。なにしろ、原作小説で「同じ顔」として文字だけで表現された人物を、映画の中ではまったく同じ人間=東出昌大が演じているのだから。

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