『ドライブ・マイ・カー』脚本の魅力を徹底解説 “解釈の遅延”という発想とジャンルの横断
本作では、多くの解決、多くの解釈は意図的に遅延されている。それぞれのエピソードの意味は、ラストシーンまでに、かなりの部分で氷解することになるが、もしそれらが早い段階で明らかになっていたら、どうだろうか。その時点で観客は以降の、意味の限定された記号的な画面を見続けることになってしまう。それを避けることで、観客は映像を豊かな“体験”として享受できるのだ。そして、その後に意味が確定したからといって、観客の体験自体が消え去ってしまうわけではない。
意味付けられない映像そのものの感動と、意味付けられる物語の感動。その両極の葛藤のなかに、“解釈の遅延”という発想が生まれることになる。おそらく濱口監督は、監督と脚本家という立場と能力から、そのメカニズムを自覚し、脚本によって映像の輝きを維持することを可能にしているはずである。複雑で豊かな映画だと評価される本作の脚本の凄さというのは、まさにその点にある。
しかし、まだ問題が残っている。前述したように、観客は“意味付けられていない映像”を長時間観ることに退屈やストレスを感じるものだ。それをどう乗り越えればいいのか。その問題を見事に解決している映画に、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督のドイツ映画『嘆きの天使』(1930年)がある。この映画は、美とは何か、知識とは何か、愛とは何かという普遍的な問題に、厳しい姿勢で切り込んでいく、涙と心の痛み無しには観ることのできない不朽の名作だ。
しかし、その物語の始まりは、大学生がキャンパスで落とした卑猥な絵葉書をカタブツの教授が発見して憤怒するというもので、それは物語の終着地と比べるとかなり落差のある描写だ。しかし、最後まで鑑賞することで観客は、この笑える場面にすらテーマにかかわる意味が付与されているのに気づくことになるのである。つまり『嘆きの天使』には、観客を誘導する仮の要素が用意されていて、作り手はそれを楽しませながら、真のテーマへとわれわれを周到に誘っているということなのだ。観客は、キノコを探しているうちに気づいたら危険な森の奥に、まんまと足を踏み入れてしまった子どものようである。
『ドライブ・マイ・カー』もまた、家福の妻である“家福音(かふく おと)”(霧島れいか)のミステリアスな行動を見せることで、観客に興味を持たせることに成功している。家福と音は、長い夫婦関係を築きながらも互いに深い愛情を持っているように描かれている。しかし、家福はある日、音が自宅に男を連れ込んで不倫をしている現場を目撃してしまう。その後、家福が愛車で事故を起こすと、音は本当に心配していたという風に、男に抱かれていたその腕で家福を抱きしめるのである。この戦慄させられる一連の描写によって、観客は本作を不気味な不倫劇として追いかけることになる。
だが、この世から音が姿を消してしまうことで、本作の見方はガラリと変わってしまう。精神的な傷を負った家福は、“音が自分を愛していたのか”という疑問を引きずり、彼女の音声が吹き込まれたカセットテープを再生し続けることになる。主人公を翻弄する謎めいた女性の存在は、「ファム・ファタール」と呼ばれ、謎めいた犯罪映画のジャンル「フィルム・ノワール」を構成する主要因となってきた。本作はここで、答えの無い“愛の謎”を探っていく、ある種の「フィルム・ノワール」、あるいは村上春樹作品の主題を追う文学的な作品へと変貌する。
家福の心の拠り所は、長年築きあげてきた“二人だけの秘められた関係”である。それはセックスをすることで、音がシャーマン(祈祷師)のように物語を紡ぎあげるという神秘的な儀式であり、そこで生まれた物語を家福が書きとめることで、脚本を完成させるというものだ。家福は、このきわめてプライベートな儀式は自分がいなければ成立しない唯一無二のものと自負している。それこそが、二人を結びつける“愛の証”なのではないか。しかし、それは浮気相手であった俳優の高槻(岡田将生)の証言によって脆くも崩れ去ってしまう。
ここから、主題は音の謎よりも、家福の内面の物語へと移っていく。音の正体が何であれ、その真実を暴くことはもはや難しい。いまとなって大事なのは、家福が音をどのように理解するか、なのではないか。みさきが言うように、音の行動に大きな謎や意味などはないのかもしれず、家福のことを本当に深く愛していたのかもしれない。