『おちょやん』少女編が描いたもの 属性から解き放たれてスタートラインに立つ千代の姿

『おちょやん』少女編が描いたもの

「うちは捨てられたんやない。うちがあんたらを捨てたんや」

 いまだかつて、父親に対してこんな台詞を吐く朝ドラヒロインがいただろうか。11月30日に放送開始した連続テレビ小説『おちょやん』(NHK総合)で毎田暖乃がヒロイン・竹井千代の子ども時代を演じた「少女編」が2週間の放送を終え、12月14日の放送から本役・杉咲花のターンが始まる。

 主人公の一代記を描く朝ドラにおいて、序盤の「幼少期」が侮ってはいけない重要なファクターであることは、朝ドラファンなら誰もが知るところだ。なにしろ作品の「つかみ」である。主人公がどんな生い立ちで、どういう思いをして育ち、どんな欲求を抱き、今後の人生にどう繋がっていくのか。そしてこのドラマが描きたいことは何なのか。それらをしっかりと提示しなくてはならない。こうした難題を、想像を凌駕するレベルでクリアしてみせた『おちょやん』の「少女編」は、朝ドラ史に残る出色さと言っていいのではないだろうか。

 5歳で母と死別し、飲んだくれで働かないダメ親父・テルヲ(トータス松本)のもと、食うや食わずの貧しい生活を強いられる千代は、弟のヨシヲ(荒田陽向)の面倒をみながら家事一切を担い、学校にも通えず、読み書きもできない。テルヲが突然連れてきた継母・栗子(宮澤エマ)に居場所を奪われ、わずか9歳にして家を出ることを決意。道頓堀の芝居茶屋へと奉公に出る。

 千代の来し方を記した数行のアウトラインを一読しただけでは、いかにも涙を誘いそうな“苦労話”に見える。しかし、この朝ドラは一味違う。第1週の週タイトルでもある、千代の言葉「うちは、かわいそやない」にも現れるように、このヒロインは周りからの同情も、自己憐憫も跳ねのける。さらには、ある種、視聴者の自己満足ともいえる「ヒロインを哀れむ気持ち」にも「お断りします」を突きつける。

 「悲劇と喜劇は背中合わせである」と、このドラマでは繰り返している。そしてヒロインの千代には、自らの悲劇を客体化して喜劇にする逞しさと知恵がある。第1話冒頭で、やがて女優の道を歩むことになる千代が舞台の上から「この物語は、私・千代の一代記でございます」とメタフィクションな口上を述べるくだりからして、すでに「客体化」がなされている。ヒロインが遭遇する試練を「かわいそうがる」のではなく「ヒロインが機転とユーモアで乗り切る姿を楽しんで見てください」という宣言のようにもみえた。千代ほどの不遇ではないにせよ、この厳しい時代を生きる私たちにとって、『おちょやん』が伝えようとするこうした機知は貴重だ。

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