プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること

“暗い画面”の映画が示唆すること

同時代的な並行性と「明るい画面」

 実際、実写映画以外にも眼を向ければ、2007年は、アニメーションの世界では、この連載でものちに中心的に取り上げる予定の新海誠が、のちの歴史的大ヒット作『君の名は。』(2016年)のルーツ的作品のひとつともいえる初期代表作の『秒速5センチメートル』(2007年)を発表した年でもあった。よく知られるように、新海もまた、彼の出世作となった2002年の短編『ほしのこえ』ではデジタルソフトウェアを駆使したインディペンデントアニメーションの文脈で評価を確立したのち、2010年代にメジャー化したという経緯をたどっており、じつはさきほどの「2007年の世代」のキャリアとよく似ている(実際、アニメーション研究の土居伸彰は、この時期の前後、2007年の世代に含まれる実写映画の作家たちとインディペンデントアニメーション作家たちの作品を合わせた上映会を開催しており、過去にぼくとの対談でも両者の並行関係を認めていた)。

 また、さらに興味深いのは、2007年の世代に象徴される、こうしたインディペンデントシーンの潮流が何も日本の映画界にだけ起こっていたのではないようにも思えることだ。たとえば、2000年代初頭からニューヨークの若手インディペンデント映画シーンで台頭した映画運動の動向として知られる「マンブルコアMumblecore」もその代表的な例のひとつとみなせるだろう。ノア・バームバックやグレタ・ガーウィグをはじめとするマンブルコア作品の特徴は、おもに20代の若者を主人公にした日常的な物語を素人俳優と口語的な演技で描くところに特徴があるとされ、現代日本の2007年の世代と連動的な動向とみなすことができる。
さらにいえば、デジタルカメラを駆使して撮られた『ヴァンダの部屋』(2003年)以来、やはり非職業俳優を起用し、彼らとの独特の相互交渉(コミュニケーション)のなかで作品を作り続けてきた先のコスタの映画もまた、どこかこうした流れと共鳴するところがあるだろう。

 ともかく、これらのおもにインディペンデントな制作環境を基盤とし、またそれゆえに同時代のデジタル・ネットワークメディアの社会的浸透を背景として現れた新たな映画文化の潮流は、2007年あたりにその萌芽を見せ始め、2010年代にかけてぼくのいうワークショップ映画やプロセスの映像文化(あるいは映画批評家の三浦哲哉の言葉でいえば、彼が『「ハッピーアワー」論』で提唱している「震災後の映画」)として一挙に台頭してきた。

 そして重要なのは、この連載が注目するフェーズでいう「画面」の様相に関していえば、いわばWeb2.0以降の映画を象徴するこれらの作品のうち、その代表的な作家といえる新海のアニメーションの画面があたかもInstagramの画像のようにキラキラと明るいことだ。思えば、「2007年の世代」からプロセスの映像文化にいたる21世紀の映画やアニメーションの重要な作品群は、この新海にせよ、あるいはJ・J・エイブラムスにせよ、ひとしなみに「明るい画面」を目指してきたといえる。

 ところが、ポストコロナの映画たちは、どこかそれとは対極的な「暗い画面」をぼくたちに見せ始めているのだ。

ポストヒューマニーズの哲学との関係

 「明るい画面」から「暗い画面」へ。コミュニケーション=プロセスの連鎖からモナド的な孤絶へ。あるいは、2010年の『歓待』から2020年の『本気のしるし 劇場版』へ。

 コロナ禍に曝される昨今の映画をざっと眺めるとき、今回はさしあたり以上のような状況の変化に注目してみた。では、こうした変化をぼくたちはどのように捉えればよいのだろうか。次回以降に展開する議論に繋げていくためにも、ここではよりパースペクティヴを広げて2020年代に注目されている一連の「ポストヒューマニティーズの哲学」の問題系を参照しながら最後に考えてみたい。

 ぼくはこれまで、ワークショップ映画やプロセスの映像文化などと概念化してきた2010年代の映画のパラダイムを、近代以降の人間中心主義を脱し、人間以外のモノ(オブジェクト)に注目してそれとの人間の関係性を考える21世紀のポストヒューマニティーズの哲学と関連づけながら考えてきた。たとえば、そこでおもな手掛かりとしてきたのは、ミシェル・セールやカトリーヌ・マラブー、ベルナール・スティグレール、ブルーノ・ラトゥール、エリー・デューリング、そしてジルベール・シモンドン……といった現代フランスの哲学者たちの思想であった(前回触れたアクター・ネットワーク理論もそのひとつだ)。

 彼らについては今後折に触れ言及していく機会があるだろうが、彼らの哲学はいちように、あるひとつの共通点を持っている。それは、複数の競合的に動くアクターたちの相互干渉的なコミュニケーションのネットワークを通じて、とりあえずの「かたち」を目指す何かが組織されるプロセスに注目するという姿勢である。つまり、それはセールやマラブーがキーワードにする「可塑的plastic」な状態と深く関わっている。スティグレールらに影響を与えたシモンドンが、「粘土は単に受動的に形成されうるばかりではない。コロイド状であるがゆえに粘土は能動的に可塑的なのである」(『個体化の哲学――形相と情報の概念を手がかりに』近藤和敬他訳、法政大学出版局、37頁)と述べたように、彼らがしばしば例に持ち出す粘土や煉瓦は外側から圧力を加えられつつ内部にこもる反発力がその力を受け止め、内外の両者がせめぎあうことでグニュグニュと絶え間なく変形を続ける。これが可塑性だ。そして、続けてシモンドンが「粘土を準備することは分子が均等に配置されているこの状態を作りだし、この連鎖上の配列を構築することである」(同前)とするように、この可塑的なプロセスは「個体化(individualisation)」を目指してダイナミックに次々と後続して連鎖していくことになる。

 また、こうしたセールやマラブーの可塑性の哲学、シモンドンの個体化の哲学は、現代のデューリングの思想が典型的であるように、デジタルメディアやコンテンツ、またアニメーションととても相性がよい。複数のユーザ(アクター)が既存の動画を可塑的に作り替えてアップするウェブの映像や、殴っても落ちてもゴムのようにかたちが変形するカートゥーンのキャラクターたちの身体は、まさにこうした哲学が打ち出すイメージを具体的になぞっているからだ。したがって、ぼくもこれらの言説を自分の映画批評やアニメ論の議論にしばしば参照してきた。

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