プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること

“暗い画面”の映画が示唆すること

「プロセスの哲学」としてのホワイトヘッド

 しかし、ここでそれら以外にもうひとつの重要な補助線を持ってくるとすれば、――「プロセスの映像文化」という言葉の選択でなんとなくお気づきの読者もいるかもしれないが――いわゆる「プロセス哲学」や「プロセス神学」という学問の生みの親であり、今日のポストヒューマニティーズの哲学の文脈からその存在がふたたび脚光を浴びている20世紀前半イギリスの数学者・哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの形而上学である。

 後期の主著『過程と実在』で「有機体の哲学」という名称で体系化されたホワイトヘッドの思想は、ひとことでいえば、宇宙全体を含むこの世界を、あらゆる存在が相互に関係しあい、それらが連続的かつダイナミックに繋がりあうプロセスとして捉えるという考え方だ。

 ホワイトヘッドが一貫して主要な論敵とするのは、彼が「実体の哲学」と名づける立場である。実体の哲学とは、デカルトを典型とする近代西洋哲学に主流の考え方で、文字通り存在を実体とみなし、それ以外の存在との関係を必要とせずそれ自体で自立的に捉えられるとするものである。しかしホワイトヘッドは、通常はそのように、それぞれが実体として分断して捉えられてきた人間とモノ、動物、機械、木や石、電子などのあらゆる存在者(ホワイトヘッドの用語では「現実的存在actual entity」)が絶えず流動し、相互に関係しあいながら有機体のように連続的に成り立っていると考える。ホワイトヘッドによれば、宇宙のあらゆる現実的存在たちは、絶えずほかの、または過去の消滅したあらゆる現実的存在を自らの構成要素として連続的に吸収していき、その生成プロセスにおいて固有の存在者となっていく。

現代に甦るホワイトヘッド思想

 いうまでもなく、こうしたホワイトヘッドの世界観は、濱口の『親密さ』から富田の『バンコクナイツ』、三宅の『THE COCKPIT』まで、2010年代のプロセスの映画=ワークショップ映画のモティーフや構成要素とその形式においてきわめて重なるところがある。それは、深田の『歓待』であらゆる人種のいかがわしい闖入者たちが互いに輪になって部屋のなかで踊り狂うシーンで示されたようなフラットな連続体を形成しているのだ。ちなみにいうと、このほかの存在者の働きを後続の存在が自己の基盤として取り込み続ける関係的な作用を、ホワイトヘッドは「掴むこと」を意味するラテン語に由来する「抱握prehension」という用語で定義している。ここで彼が「手」(触覚)の隠喩を用いている点は、前回の大林の「ハンドメイキング」の隠喩やタッチパネルの性質とも通じているようで示唆的である。

 ともあれ、北米の哲学者で映画理論家でもあるスティーヴン・シャヴィロが論じるように(『モノたちの宇宙』)、形而上学批判と言語論的転回が席巻した20世紀の西洋哲学にあって、まったく反対に、形而上学とモノとの関係を強調し、なおかつ実体の哲学を批判し続けたホワイトヘッドは、長らく哲学史ではマイナーな存在だった。しかし、まさに近代以来の人間中心主義や言語中心主義の考え方に強い疑いが差し挟まれ、異常気象とAIの時代に、むしろ人間と人間以外の有象無象のオブジェクト(まさにコロナウイルス)との相互関係の諸相にスポットが当てられる2000年代以降のポストヒューマニーズの哲学――とりわけ新しい実在論やオブジェクト指向の存在論といったモノとの関係をフラットに考えようとする現代思想のなかで、急速に再評価の機運が高まっているのである。

「モノのプライバシー」を擁護する現代思想

 そして、そのオブジェクト指向の哲学の代表的な論者であり、ホワイトヘッドの反実在論的な側面を高く評価して自らの哲学に大きな影響を与えたと表明するのが、北米の哲学者グレアム・ハーマンである(“Response to Shaviro”, in The Speculative Turn, p.293)。

 ハーマンは、反実在論的風潮のなかで長らく実体や人間を中心に思考してきた20世紀哲学において、例外的に人間を含むあらゆるモノをフラットに捉えたホワイトヘッドを肯定的に評価する。しかしその一方で、彼はホワイトヘッドの哲学があらゆる存在を連続的に関係づけ、結びつけてしまうパースペクティヴを「関係主義」だとして否定する(ちなみにハーマンは、ホワイトヘッドの描く連続的なプロセスのイメージを映画やアニメーションのコマに喩えている)。むしろハーマンは、ホワイトヘッドとは逆に、個々の存在者を相互に決して関係しあわない断絶的な実体として捉えようとするのだ。

 ハーマンによれば、個々のオブジェクトはほかの存在に対して自らの全容を披瀝することも何かに還元されることもなく、つねに完全に汲み尽くしえない秘められた「余剰」を含んでいる。そうしたあらゆるオブジェクトがほかとの因果関係から隠されている様態を、彼はハイデガー哲学を参照しながら「退隠withdrawal,Entzug」と呼んでいる。つまり、ハーマンの哲学は、「モノたちのプライバシー」を擁護する思想なのだ。

「退隠」する「新しい日常」の「暗い画面」?

 さて、こうして見てくると、新海誠的な「明るい画面」を湛えた2010年代の「プロセスの映画たち」の支えられる秩序が、後期ホワイトヘッドのホーリスティックな有機体の哲学になぞらえられるとしたら、コロナ禍のステイ・ホームのうちに公開された『本気のしるし 劇場版』や『ヴィタリナ』のあの「暗い画面」に映るモナド的な密室の数々とそこに住まう人物たちが、どこかハーマンの描き出す退隠したオブジェクトたちの闇のなかの蠢きに重なって見えてくることに気づかされる。ハーマンは、個体的実体としてのオブジェクトを「空虚な現実態(vacuous actuality)」だと表現しているが(Bells and Whistles, P.224)、たとえば夫のいなくなったあとのフォンタイーニャスの家に幽霊のようになって座るヴィタリナや、教会のなかで腕を細かく振動させながらたたずむヴェントゥーラの姿は、まさに「空虚な現実態」と呼ぶにふさわしいだろう。

 「新しい日常」の映画の「画面」は、もしかするとハーマン的な私秘的なオブジェクトたちが形作る「暗い画面」を召喚しようとしているのではないか。あるいは他方で、最近、ホワイトヘッド哲学にハーマン的な「断絶」の契機を見ようとした『連続と断絶――ホワイトヘッドの哲学』(人文書院)の飯盛元章のように、むしろこの「明るい画面」と「暗い画面」の対比は推移的・相互排他的な関係ではなく、もっと複雑に競合するものなのかもしれない。次回以降では、この関係性をより追求してみよう。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■公開情報
『本気のしるし 劇場版』 
全国公開中
出演:森崎ウィン、土村芳、宇野祥平、石橋けい、福永朱梨、忍成修吾、北村有起哉ほか
監督:深田晃司
脚本:三谷伸太朗、深田晃司
原作:星里もちる『本気のしるし』(小学館ビッグコミックス刊)
制作協力:マウンテンゲート・プロダクション
製作:メ~テレ
配給:ラビットハウス
(c)星里もちる・小学館/メ~テレ
公式サイト:https://www.nagoyatv.com/ honki/

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