プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること

“暗い画面”の映画が示唆すること

コミュニケーションの接続と断絶

 いずれにせよ、『本気のしるし 劇場版』における物語世界や登場人物たちのこうしたたたずまいは、これまでの深田作品を振り返ると、総じて異質なようにも思える。というのも、これまでの深田の映画は、物語世界の設定においても、また作品そのものの作られ方においても、どちらかといえば、孤絶よりは連鎖、断絶性よりは連続性(ないしは連帯)に主眼が置かれてきたといえるからだ。

 前作『よこがお』(2019年)は、限定された登場人物たちがいびつな実存的抽象性を感じさせるシルエットを湛えていた点で本作の人物表現を早くも窺わせる要素があったが、他方で、筒井真理子演じるヒロインが甥の犯罪行為によって深刻なメディアスクラムに陥っていく過程は、まさに(ウイルスのように!)彼女をめぐるステレオタイプのイメージが社会全体に波及していく流れを描き出していた。あるいは、インドネシアを舞台に海に流れ着いた正体不明の男(ディーン・フジオカ)が多言語を操りながら島に暮らす日本人や現地人と人種や国籍を越えて関わり、不可思議な出来事を起こしていく『海を駆ける』(2018年)にせよ、また、印刷所を営む家族のもとに訪れたこれまた謎の男(古舘寛治)がきっかけになり、家庭内にさまざまなひとびとが雪崩れ込んでくる混乱を戯画的に描いた初期の傑作『歓待』(2010年)にせよ、これまでの彼の作品群ではおうおうにして「コミュニケーションが不断に連続していくこと」がドラマを駆動する大きな要素になってきた。

 数年前に書いた深田晃司論でも論じたことに通じるが(「公共性のゆくえと「無人の世界」の到来」、『文學界』2017年7月号所収)、深田の映画はどれも、何らかの親密圏ないし公共圏に外部からある例外的な「異物」が混入することで、制御不可能な混乱がどんどん悪無限的に増殖=連鎖していくプロセスを悲喜劇として描き出すことにおいて共通しているといえるだろう。それゆえ、新作の『本気のしるし 劇場版』でも、その「異物」的な存在はいうまでもなく浮世というキャラクターに依然として認められるわけなのだが、一方でそこで起こるサスペンスや悲喜劇は、今回はむしろ浮世と周囲の登場人物が決定的に離れ、すれ違ってしまうという局面にこそ起因している。

 そしてまた、連続的なやりとり(コミュニケーション)のプロセスのなかで何かが生み出されていくというモデルは、じつはかつての深田の作品作りのあり方そのものにも当てはまると思う。知られるように、深田は映画監督としての活動初期から劇作家・演出家の平田オリザが主宰する劇団「青年団」に所属しており、劇団に所属する俳優たちを多数起用しながら、とりわけ初期作品では彼らとのインディペンデントなワークショップ的環境のなかでも創作を行ってきた(今回の新作でも青年団の常連俳優が出演している)。こうしたインディペンデントなコミュニケーション(共同作業)のなかで映画を創作するスタイルは、後述するように、じつは深田と同世代の少なくない映画監督たちのキャリアに共通していたものだ。だからこそ、少なくとも作中の物語のレベルで無数の孤独なモナドがタコツボ的に分散した『本気のしるし 劇場版』は、そうした深田の世界から一歩踏み出しているように思われた。

孤独な「暗い密室」の氾濫

 そしてじつをいうと、ここでぼくがまとめたような印象は、ここ最近に公開(配信)されたほかの映画でも多かれ少なかれいくつか見られるものだ。

 わかりやすいところでは、深田ともほぼ同世代といってよい(4歳違い)三宅唱監督のNetflixオリジナルシリーズ『呪怨:呪いの家』(2020年)がそうだった。三宅もまた、民間の映画教育機関「映画美学校」で映画製作を学んだのち、インディペンデント映画で頭角を現してメジャーデビューを果たした俊英であり、若いラッパーたちが狭い部屋(密室!)のなかでヒップホップのトラックを制作するプロセスを記録した短編『THE COCKPIT』(2014年)など、やはり劇団のワークショップのようなスタイルを示す注目作を手がけて
きた経緯がある。そして、人気Jホラーシリーズのスピンオフでもある新作では、やはり物語は薄暗い一軒の家屋(密室)がおもな舞台となるのだ。

Netflixオリジナルシリーズ『呪怨:呪いの家』Netflixにて、全世界独占配信中

 あるいは、同じような「薄暗い密室」と孤絶するひとびとのイメージは海外の作品にも広く認められる。たとえば現在、世界的に軒並みヒットしているクリストファー・ノーランの新作『TENET テネット』(2020年)でもノーランの映画の代表的な符牒となっている「密室」がやはり物語の軸を担う時間逆行装置として主人公たちを闇に閉じ込める役割を果たしていた。そして、これまた数々の「部屋」を撮り続けてきたペドロ・コスタの新作『ヴィタリナ』(2019年)。この映画でもまた、夫を失ったことを遅れて知らされる主人公の女
性ヴィタリナ(ヴィタリナ・ヴァレラ)は、アフリカのカーボ・ヴェルデからリスボン近郊のスラム街フォンタイーニャス地区の夫が借りていた家に移り住み、作中でそこからほぼ出ることがない。映画は、『本気のしるし 劇場版』や『呪怨:呪いの家』のように、深い漆黒の闇に包まれた部屋のなかのヴィタリナの姿を終始、細く差し込む鮮烈な光とともに写し出す。彼女は石造りの窓に嵌められた鉄格子の網目から鋭いまなざしで外を見据える。ここでもまた、周囲から隔絶した密室とその内部の人間がモナドのように硬く凝固しながら、外部から自らの存在を閉ざしているのだ。

 そう、それらのイメージはしいて喩えるなら、グローバルな交通が制限され、ぼくたち一人ひとりが自分たちの空間に閉じ籠ること(stay home!)を強いられたコロナ禍の「新しい日常」を図らずも律儀に反復してしまっているようにも見える。

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