『ストーリー・オブ・マイライフ』が描く生と死の円環 疾走し続ける4姉妹のきらめき

『ストーリー・オブ・マイライフ』が描く生と死の円環 疾走し続ける4姉妹のきらめき

 “Write something for me.”  ーー私のために何か書いて。

 数年にわたる闘病の末、ついにみずからの死を覚悟した妹の、姉への頼みごと。それは頼みごとという形を装いつつ、書くという行為に対する、最良の理解者による激励なのである。どんなに優れた書き手であっても、誰かに読まれているという実感なしに、人は書くというあまりにも孤独な営みに耐えるのはとてもむずかしい。一握の砂が風にサラサラと持って行かれてしまうかのような米国東部ニューイングランド地方の岸辺で、姉と妹は最期の時間を共に過ごしている。この代えがたい時間は、書くという行為への擁護の様相を呈することによって、ある崇高ささえ帯びている。

 姉妹の岸辺からほんの数週間前。無名な女性作家ーーつまり姉ーーは、自分の習作小説が出版社にうまいこと掲載採用された。高揚した気分にしたがうまま、作家はニューヨークの舗道を駆け出す。出だしから生まれる疾走感。この疾走感が『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』という作品全体のテンポの主軸をなす。テンポ、リズムこそ映画演出の粋だ。それは時にテーマ性よりもシナリオよりも重要なものとなる。映画とは単なる「撮影された演劇」ではないのだから。主人公が感情の赴くまま駆け出すリズム。その息せき切ったリズムがカメラに乗り移り、快調なテンポを生み出す。撮影監督を担当したのはフランス人のヨリック・ル・ソー。オリヴィエ・アサイヤス監督『アクトレス~女たちの舞台~』(2014年)、『パーソナル・ショッパー』(2016年)のカメラを担当したと聞けば、その息せき切ったリズムを思いだしてくださる映画ファンもおられることだろう。オリヴィエ・アサイヤスよりもさらに遡って、フランス・ヌーヴェルヴァーグのような香りもある。手紙の書き手がカメラ目線でまっすぐに自分の文面を読み上げるあたりは『恋のエチュード』(1971年)のフランソワ・トリュフォーを、どさくさに紛れて真似してみたいという、これがまだ監督進出第2作目であるグレタ・ガーウィグの悪戯心があられもなく覗いているのだろう。

 息せき切ったリズム。ここでは停滞を表現するときでさえ、せっかちなテンポを刻むことをやめない。語りたいエピソードは山ほどあるのだから、早く次へ次へ! まるで『若草物語』という物語を手早く語るダイジェスト版を眺めているかのようでさえある。ダイジェストと言ったら聞こえは悪いかもしれないが、映画とはそもそも撮影と編集によって切り刻まれたシナリオのダイジェストなのであって、シナリオとは人生のダイジェストなのである。そして『若草物語』の原作小説じたいが、19世紀アメリカ文学を代表する女性作家ルイーズ・メイ・オルコットの自伝のダイジェストではなかったか。

 『若草物語』は映画が発明されて以来、何度も映画化されているが、中でも最も名高いのが、次女ジョー役をキャサリン・ヘプバーン、エイミーをジョーン・ベネットが演じた版(1933年)ということになるだろう。その監督をつとめ、のちにハリウッドの押しも押されもせぬ名匠に登りつめていくジョージ・キューカーが、同作について今回のグレタ・ガーウィグと似たような見解を持っていたことがインタビューで分かる。

「構成という点ではバラバラで、原作小説そのままに、挿話の寄せ集めに近かった。いわゆるプロットはなくて、物事がただ前後関係なく起きていく。個々の出来事が脈絡なく繋がっていく、というだけなのだ。戦後のMGM版『若草物語』はその点でまちがいをおかしている。脚本家は原作小説を信頼していた。あの小説がもつ活力を理解していた。あの小説の活力は感傷やめめしさとは無縁のものだった」ギャビン・ランバート著『ジョージ・キューカー、映画を語る』(国書刊行会)P.132

 辛辣で知られるジョージ・キューカー監督が「まちがいをおかしている」と評したMGM版とは1949年のジューン・アリソンが次女ジョーを演じたマーヴィン・ルロイ監督版のことだが、じつはこのマーヴィン・ルロイ版も悪い出来ではない。ただ、キューカーほどの天才的な魔法がないだけだ。トリュフォー、あるいはアサイヤスのような生き急いだリズムで語ろうとする今回のグレタ・ガーウィグもまた、キューカーの教義に倣ったわけではないだろうが、「挿話の寄せ集め」が「前後関係なく起きていく」点では同じである。ガーウィグは編集で現在、過去、未来を縦横無尽に行きつ戻りつする。四姉妹の全盛期を、7年後のバラバラになった状態から見返す。解散して7年後のザ・ビートルズの4人時代を、孤独になったポール・マッカートニーが苦々しさと矜持の双方をもって懐古するかのように。「個々の出来事が脈絡なく繋がっていく」とキューカーは言う。しかし、脈絡がないかに見えて、じつのところ秘儀的な脈絡が「脈」打っているのだ。たとえばジョーのうたた寝というモチーフ。たとえばジョーが残雪の道を歩くというモチーフ。ジョーが階段を下りていくというモチーフ。これらの動きは、四姉妹時代/ソロになった7年後の双方で反復し、重複し、時間経過による残酷な差異がきわだつようにパラレルに並べられていく。

 これらの反復が誰にも気付かれない秘儀なのだとすれば、いったい何のための秘儀なのか? 小説に生まれ変わるための、だろう。彼女たちの生はあえなく霧消していくが、小説として生まれ変わる。映画として。そこには男性という性が入りこむ余地はない。南北戦争に出征して不在のお父さまはもちろん、ローリー、ローリーの祖父、ローリーの家庭教師ブルック、そしてNYの下宿の住人フレデリック・ベア教授。これらの男性登場人物たちはいずれも四姉妹の生を足元からきわだたせるための、影の薄いフットライトに過ぎない。この四姉妹は四姉妹だけで完璧なフォーメーションを構築しており、マネージャー的存在である母マーミー(この役を演じたローラ・ダーンの近年の充実ぶりはおそろしいほどだ)を中心に、お父さまからの手紙をみんなで読む場面などで形成される四姉妹の抱擁のかたまりは完璧なレリーフを形成しており、他者の介入する余地はない。

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