『イエスタデイをうたって』のアニメならではの手法 “停滞”と“色彩の否定”について考える

 藤原佳幸監督の『イエスタデイをうたって』は、冬目景の同名マンガを原作とする青春恋愛群像劇である。コンビニのアルバイトで生活をする魚住陸生(リクオ)、カラスを連れた不思議な少女・野中晴(ハル)、リクオが恋心を抱く森ノ目品子、品子を慕う早川浪の4人を中心に、錯綜する人間関係の親和力を描いている。

 緻密に描き込まれた都会の住宅街、そこに巧みにレイアウトされた谷口淳一郎デザインのキャラクター、人物や事物の的確なモーション、繊細な色彩設計、卓越した声優の演技。これら第一級のアニメーション表現が、原作に内在する空気と情緒を顕在化させ、新たな価値を付与することに成功している。ストーリーそのものは地味目ながら、今クールの中で最も目が離せない作品の1つであると言ってよいだろう。

停滞する若者たち

 映画やアニメーションには列車のシーンが頻繁に登場する。それは単純な移動を表す以外に、ある時は冒険活劇の舞台となったり(宮﨑駿監督『天空の城ラピュタ』(1986年)など)、ある時は作品のテーマを仄かしたり(幾原邦彦監督『輪るピングドラム』(2011年)など)と、様々な形で作品を飾る。

 『イエスタデイをうたって』では、「scene 01」と「scene 02」の電車通過のカットが象徴的だ。線路沿いにいる人物(「01」ではリクオ、品子、ハル、「02」では品子)の付近で踏切が鳴り、背後を電車が水平方向に通過する。アニメオリジナルとして挿入されたこの短いカットは、“心の停滞”という本作のテーマをうまく視覚化している。

 実写映画とは異なり、カメラの物理的な移動がないアニメーションでは、後景の水平移動はしばしば前景に配置されたキャラクターの前進運動を表す。つまり、キャラクターに走るモーションを付した上で固定し、背景を動かすことで前進しているように錯覚させるわけだ(実際、リクオが自転車で移動するカットなどではこの方法が用いられている)。しかし電車の通過においては、当然この関係性が逆になる。すなわち、後景の電車が一定の速度で移動し、前景の人物たちがその場に停止するのである。

 電車には会社員と思しきモブキャラが数名乗っており、彼らは電車と共に等速直線運動をしながら主人公たちを置き去りにしていく。このカットには、直線運動のような合理的な人生を送ることができない主人公たちの心の停滞感がシンボリックに表されている。就職せずにアルバイトを続けるリクオ(彼の自室に無造作に置かれたフィルムカメラ、ブラウン管のテレビ、黒電話なども、時間の滞留を表す記号だ。直線運動のような人生を送るフクダにしてみれば、リクオの部屋は「汚くて時代を超越してる」(「scene 01」より)のである)。高校を中退し、親と離れてカラスのカンスケと暮らすハル。亡くなった湧の面影を忘れられない品子。彼ら/彼女らの心理的な時間の淀みが、電車の運動によってビジュアルとして視聴者に印象づけられ、その後「scene 02」の「前に進んでいるようでも、全然そうじゃないって。同じところ、いつまでもぐるぐるしてるんだよ」という品子のセリフによって言語化される。視覚情報と言語情報の見事な連係だ。

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