『名探偵ピカチュウ』のピカチュウは実写映画における映画スター! その“かわいさ”が意味するもの

『名探偵ピカチュウ』ピカチュウのかわいさ

 このような批判を回避したり、倫理的な作品であろうとするため、製造元の任天堂は人間とポケモンが共生しているということを強調し、アニメ版でも、本作で見られたような“ポケモン自身の意志”が重要だということを描いたり、「モンスターボールの中はポケモンにとって快適」などというような設定上での工夫がとられてきた。とはいえ、批判者にとってそれらは帳尻を合わせる言い訳に過ぎないと感じられる部分もあるだろう。ポケモンブームが到来しながらもアメリカで映画化しづらかった理由は、このあたりにもあるのではないか。『ポケモン』の送り手側の設定したあれこれを受け入れるにしても、それらを丁寧に説明しなければ虐待に見えてしまうというのでは、公開後に問題が起きる可能性がある。

 そういう視点から本作を見れば、さらに周到に批判を受けないような策がはりめぐらされていることが分かる。本作では、たしかに競技としてのポケモンバトルは存在するようだが、画面の中に登場するのは、あくまで通常であれば認められない違法な地下バトルである。そしてジャスティス・スミス演じる少年が、自分自身も死のリスクを承知でピカチュウを助けようとする描写を加えている。

 これによって、本作はバトル自体の危険性や残酷さを描くことにより、批判的な視点を作品中に先回りして置いておく。そしてポケモンはバトルの道具ではないということを観客に印象づけていくのだ。逆にいえば、人間とポケモンとの関係について、ここまで繊細に気を配ることで、現在のアメリカ国内や世界中で広く公開できるハリウッドの子ども向け映画として、やっと成立させることができたといえるだろう。

 では、このようにポケモン本来の楽しみ方を、ある程度回避しながら、それでもなお本作が強い魅力を持つためには、どうすればいいのか。それこそ本作が、その精神的な柱を、人気ポケモンをフィーチャーした『名探偵ピカチュウ』に選んだ、もう一つの理由であろう。つまり、ピカチュウという存在に魅力を集約させるということである。

 たしかに本作には、オリジナルの『ポケモン』へのリスペクトを感じることのできる描写がたくさんある。ピカチュウを含め、ポケモンたちのデザインや、CGによる表現力によって、もともとのデザインを活かしつつ、さらにそれを立体的に造形し直し、リアリティあるヴィジュアルや動きを作り上げている。だが、そのなかでもピカチュウだけは注力のレベルが異なる。これは、多くの観客の想定外の領域に突入していたのではないだろうか。

 公開前、ピカチュウの姿が静止画として出回ったとき、CGによって立体化され、顔にシワが刻まれた表情に注目が集まり、「気持ち悪い」などと違和感を露わにする反応もあった。そんな評価が生まれたというのは、おそらくいままで慣れ親しんだピカチュウのデザインが、平面的でシンプルなものだったからであろう。それが本作では、体毛やシワの表現も含め、現実世界に馴染むようなものとなった。つまり、オリジナルに敬意を払いながらも、根本的には違うものとなっているのだ。

 例えば日本のアニメーションにおけるピカチュウは、かわいいとはいえ、実際に現実世界に存在するようなイメージができないほどにイラスト的である。そのかわいさを理解するためには、まずデフォルメされた世界観や手法を受け入れるという段階を、頭の中で踏まなければならない。そのような見方に慣れてない観客からすれば、現実の犬や猫、ねずみなどのペットに近い、実写版ピカチュウのかわいさの方が自然に受け入れやすいはずだ。だから、いままでのピカチュウに対して、とくに興味を持っていなかったような人でも、今回のピカチュウの魅力にノックアウトされるケースが多く見られることになったのだ。

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