“物語を書けない”脚本家が弔辞を通じて得た人生のヒント 心に残り続ける『来し方 行く末』

4月25日から全国で順次公開される映画『来し方 行く末』を観ていたら、異国の地に、友人を見つけたような気分になった。「パソコンで3回打つと変換を学習する。ある種の儀式だ。書いているうちに知人のようになる。結局どの作品も未完成で、登場人物も命を失った。でも時々変換候補に名前が出てくるんだ」という、主人公ウェン・シャン(フー・ゴー)の言葉のように、観ているうちに彼が「知人のように」なった。スケート場で、依頼人の息子の話を聞くために、先を滑る少年を慣れない足どりで追いかける彼。メッセージを返信するのに、適切な言葉を探してしばらく「書いては消す」を繰り返す彼。優しくて真面目で、少し不器用なウェン・シャン。観客はそんな彼のことを、また、彼の日常と、彼が見る世界の美しさを、日々の片隅で、ふとした瞬間に思い出すに違いない。

『来し方 行く末』の原題は『不虚此行』、中国語の表現で「この旅は無駄ではなかった」という意味を持つ本作。時代劇スターとして人気を博し、近年は岩井俊二監督の『チィファの手紙』やディアオ・イーナン監督の『鷺鳥湖の夜』に出演するフー・ゴーが、主人公ウェン・シャン役を好演している。ウェン・シャンは、脚本家としての商業デビューが叶わず、今は葬儀場で弔辞の代筆業をして暮らしている男性だ。脚本家として「物語が書けず、すべての作品が未完成に終わっている」ことに対して葛藤はあるが、弔辞を書く仕事に関しては、「生活のため」と言いつつ真摯に取り組んでいるために、すこぶる評判がいい。

本作が描くのは、彼の日常だ。北京郊外の集合団地の部屋で、不思議な同居人シャオイン(ウー・レイ)と暮らす彼の日々は大体決まっている。洗濯をする。外のベンチに野良猫用の餌を置くと、馴染みの猫がやってくる。自転車で定期的に足を向けるのは、宮廷を模した巨大な葬儀場と、動物園。そこでいつも彼はメモを片手に人間や動物を観察し続けている。時に、そこには「ゴリラのためにゴリラの着ぐるみを着て仕事をする真面目な男性飼育員」がいたりもして、ユニークなことで溢れている。弔辞の代筆の仕事も、葬儀場で出会った葬儀屋の職員、パン・ツォンツォン(バイ・コー)との交流がきっかけだ。友人でもある2人は、度々「禁煙ですよ」と他の職員に怒られながらも、よく煙草を吸っている。友人は「別にいいだろ、あっちには煙突が3本もある」と言い訳し、本当は違う意味を持つ「人間煙火」という言葉から、煙草を吸う自分たちを「人の世の煙と火」に見立て、「おれたち2人で“人の世”」と言う。死者を送る仕事をしている彼らが手に持つ煙草は、どこか火葬場の煙突の煙を連想させ、そんなふうにウェン・シャンは生と死の間を、もしくは現実と非現実の間を、自転車で軽やかに移動しながら日々を過ごしている。

何より惹かれるのが本作の静謐さである。葬儀場は「穏やかな場所だった」とウェン・シャンが言うように、本作には、人々が彼の弔辞に触れて救われ、涙するといったいわゆるドラマチックな展開が用意されていない。本作が描くのは、ウェン・シャンが書いた弔辞そのものではなく、彼が弔辞を書き終えるまでの過程なのだ。彼はいつも、いろいろな人の話を聞いている。時には彼の文章を読んで、「私の知っている彼はそんな人じゃない」と訴えてくる人もいる。例えば、仲が悪いようで本当は兄思いの故人の妹や、忙しい父との関係に悩み、父と祖父とのすれ違いの日々を知る故人の孫。ネット上で「声」を通して故人と繋がっていた女性。ウェン・シャンの言う通り「事実は人によって違う」から、すべての人の話を聞いたからといって、故人そのものの人となりが分かるわけではない。でも、彼は真摯に人々の話を聞くことで、彼ら彼女らの思いを解きほぐしていく。そんな彼の誠実な仕事ぶりを見ていたら、自ずと彼の弔辞が、大切な人を亡くした人々のこれからの人生を優しく照らしていくだろうことを想像することができるのである。