映画『ブリジット・ジョーンズ』シリーズを原作小説とともに総括 最終作で終えた“役割”

『ブリジット・ジョーンズの日記』を総括

 レネー・ゼルウィガー演じるイギリス人女性“ブリジット・ジョーンズ”の生き様が、多くの観客の共感を呼んだ、大ヒットラブコメディ映画『ブリジット・ジョーンズの日記』シリーズ。その最終作と位置付けられる第4作『ブリジット・ジョーンズの日記 サイテー最高な私の今』が、ついに公開された。

 ここでは、映画シリーズや、節目となる本作『ブリジット・ジョーンズの日記 サイテー最高な私の今』の内容、そして原作小説シリーズに言及しながら、“ブリジット・ジョーンズ”という現象全体をまとめていきたい。

※本記事では、映画『ブリジット・ジョーンズの日記 サイテー最高な私の今』のストーリーに言及しています。お気をつけください。

 この映画シリーズの基になっているのは、作家ヘレン・フィールディングの人気小説シリーズだ。第1作が発表された1996年当時、日記形式で日常の出来事をつづっていくブリジット・ジョーンズという主人公に託されたのは、独り身で都市生活を送るイギリス白人女性のリアルな感覚。毅然と独り身を続ける「シングルトン」と作者が名付けた属性を与えられた30代女性のブリジットは、結婚を経験して「なぜあなたは結婚しないの?」と、ことあるごとに圧力をかけてくることを「スマッグ・マリード(既婚のうぬぼれ)」だと愚痴りながら、煙草や酒、仲間たちとのおしゃべりを楽しみつつ、仕事や恋愛に日々奮闘する。

 小説版が注目を浴びたのは、女性の社会進出の機会増加により、キャリアワークに集中することで晩婚化傾向が目立っていた時期であり、女性の自立と幸福との両立が模索される「ポスト・フェミニズム」と連携していた。だからこそ、同じように伝統的な価値観の抑圧にさらされながら人生を充実させようとするブリジット・ジョーンズというキャラクターに共感が集まったといえる。

 映画版は当初、ブリジットをアメリカ人のレネー・ゼルウィガーが演じるということで、イギリスの原作ファンの一部から批判を浴びたものの、上品に取り繕わない彼女の演技は大きく支持され、映画版の第1作『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001年)は、世代を代表する作品の一つとなっていった。

 その後、『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』(2004年)、永いブランクを経た『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』(2016年)と、ブリジットの人生を追う物語は、リアルな時間の流れに沿って観客とともに年を重ねていく映画シリーズに育っていったといえる。

 小説と映画の関係は少々複雑なので、分かりやすく整理しておきたい。そもそも原作小説の基となったのは、TV業界などでジャーナリストとしてのキャリアを積んでいた原作者ヘレン・フィールディングが自分の名前を隠し、「ブリジット・ジョーンズ」名義で連載していたコラムだ。実話と物語を混在させた内容は話題を呼んでいたが、なかでも当時イギリスで人気を博していた、名作文学のドラマ化作品『高慢と偏見』への愛を語った部分が、コラムを小説化させる契機になったという。(※)

 そのドラマ『高慢と偏見』で、ミスター・ダーシーを演じていたのが、コリン・ファースだった。なかでも、彼がシャツを着たままで湖に飛び込むドラマのセクシーな一場面は、多くの視聴者をときめかせた。映画『ブリジット・ジョーンズの日記』でコリン・ファースがマーク・ダーシー役を演じたことや、ヒュー・グラント演じるダニエルが水に落ちたり、本作『ブリジット・ジョーンズの日記 サイテー最高な私の今』でも、どこかダーシーを思わせるレオ・ウッドールが、まさにシャツのまま水に飛び込むシーンがある。

 『高慢と偏見』を現代的に翻案した内容に、コラムから継続する時事的な要素や原作者の人生のエピソードを加えることで、小説版『ブリジット・ジョーンズの日記』は完成し、多くの支持を受けてシリーズ化されることとなった。原作小説1、2作は、そのまま映画化され好評を得たのだが、小説の3作目は、一部ファンから不評を買うことになる。その理由は、ブリジットの運命のパートナーであり、もともとの作品の魂でもあったマーク・ダーシーが死去していたという設定が嫌われたのである。

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