綿野恵太による三宅香帆論 “アディクション”ではない推し活と労働は可能か?

綿野恵太による三宅香帆論

 綿野恵太氏による、三宅香帆氏の新刊2冊を出発点とした小論をお届けします。(編集部)

ポストフォーディズムを論じる新刊2冊

三宅香帆『「夫婦」不在社会』(講談社)

 三宅香帆は労働の人である。

 ベストセラーとなった『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)も、労働と読書の歴史を振り返りながら、本さえ読めなくなった現代人の働き方を問い直す本だった。

 小説や映画、漫画やアニメを「承認欲求」や「ジェンダー」で論じる人もいるけれど、三宅は「労働」という視点から論じる。

 詳しくいえば、ポストフォーディズム的な労働である。

 ポストフォーディズムとは、大量生産・大量消費を前提としたフォーディズム以後の労働体制を指す。工場で型通りの作業をするのではなく、知識や感情、創造性やコミュニケーションといった能力が重視される。雇用形態も流動化し、仕事と私生活の境界もあいまいになり、「好き」や「やりがい」「自己実現」までもが動員されるのが特徴だ。

 たとえば、村上春樹の小説における夫婦の在り方を論じた『「夫婦」不在社会』(講談社)においても、こうしたポストフォーディズム的な労働が問題視される。

 夫婦をはじめとしたパートナーは、お互いの秘密を共有する親密な関係だからこそ、ときに深く傷つけあう。傷ついたときには、相手と向き合い、関係を修復するための時間が必要となる。

 しかし、ポストフォーディズム社会は、それを許さない。私たちの生活は労働に侵食されており、お互いの傷に向き合う余裕さえ奪われている。それゆえ、三宅は「私たちは『あえて』加速する労働時間から、距離を置く、ずらす時間が、必要ではないか」と提案する。

三宅香帆『推したちとどう生きるか』(新潮新書)

 『推したちとどう生きるか』(新潮新書)では、私たちの「推し」となるアイドルは「ポストフォーディズム社会の自画像」である。アイドルたちは、ライブや撮影といった仕事の合間に、SNSを更新し、動画を配信する。仕事以外の余暇に、私生活をふくめた全人格を表現し、自己実現を果たそうとする姿は、ポストフォーディズムにおける理想的な労働者である。

 だが、その一方で、推し活は、こうした経済的合理性が支配する社会の「外部」=「聖性」を求める活動でもある。

 「コスパ」や「タイパ」に象徴されるように、私たちの生活は市場的な価値観=経済的合理性に包囲され、あらゆる活動が効率や損得によって判断される。だからこそ、私たちは経済的合理性では測りきれない「聖性」を追い求める。アイドルが神のように崇められ、推し活が「布教」や「お布施」といった宗教的な言葉で語られるのはこのためだ。

 しかし、三宅によれば、ここには一つの逆説がある。

 つまりポストフォーディズム時代だからこそ、むしろ、聖化する場が必要となる。
 だが問題は──推しにこそ、ポストフォーディズムに沿った成功を、人々が求めてしまうことである。(『推したちとどう生きるか』)

 私たちは、無自覚にではあれ、ポストフォーディズム社会の外部=聖性を追い求めている。だが、その「推し」となるアイドル自身が、ポストフォーディズムにおける理想的な労働者なのである。私たちは外部を目指していたはずなのに、いつの間にか、ポストフォーディズム的な価値観へと折り返されてしまうのだ。

母親的ケア=無償労働としての「推し活」

 ただし、『推したちとどう生きるか』の最大の特徴は、推しとファンの関係を、子供とその成長を見守る母親の関係になぞらえたことである。つまり、未熟な若者がアイドルとして成長し、夢を実現していく。その過程を、ファンたちはあたかも母親のように応援するというのだ。

 私はかつて別のインタビューで、三宅における「母」のテーマについては論じたことがある(「綿野恵太が考える令和人文主義」)。ここでは少し角度を変えて「労働」という観点から考えてみよう。

 推しと母親を結びつける発想は、以前の著作から見られる。

三宅香帆『女の子の謎を解く』(笠間書院)

 『女の子の謎を解く』(笠間書院)では、宇佐美りんの小説『推し、燃ゆ』(河出文庫)が論じられている。主人公のあかりは、「彼女自身を他人からも自分からもケアされない代わりに、アイドルという見えない他人をひたすらケアしようとしている」のであって、その「推し」に向ける欲望が「ある種今まで母性と私たちが呼んでいたものに近い」と指摘されていた。

 こうした解釈をさらに進めれば、推し活は資本主義が「ケア」や「贈与」を捕獲する装置として機能している、とも言えるはずだ。

 これまで論壇では、あらゆる領域に市場原理を持ち込む新自由主義を批判するために、市場交換とは異なる「贈与」や「ケア」の重要性が語られてきた。しかし、推し活は、そうした贈与やケアさえも消費へと変えてしまう。いや、ポストフォーディズムにおいては、労働と消費の境界もあいまいになるのだった。

 つまり、母親が子供に無償の愛を注ぐように、私たちは、推しに時間とお金を消費し、その成功のために無償の労働をする。

 市場の外部にあったはずの贈与やケアまでが、市場を活気づける力として捕獲されてしまうのである。

 しかも、こうした母性的な献身は、ときに子供への過度な要求となる。これだけ時間とお金を費やしたのだから、自分が望むようなアイドルでいてほしい。そうした期待が裏切られれば、愛情は憎悪へと反転する。

 こうした「母性の暴走」を防ぐために、やはり推しとファンは家族ではないのだ、と三宅は強調する。家族が秘密を共有するがゆえに傷つく関係であったのに対して、推しとファンは「秘密を共有せず、『お互いに知らないことがある』という前提に立ちながら、それでも一緒にいようとする関係」なのだ、と(『推したちとどう生きるか』)。

オタク論のいまと昔

東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)

 ところで、「推し」と「萌え」はよく比較される。

 三宅によれば、萌えは「瞬間的な欲求」を指す。それゆえに、萌えの対象は次々と変わることになる。たいして、推しとは「一瞬の感情ではなく、継続的な行為」である。わざわざ「推し変」という言葉があるように、「推し」を継続的に応援することがひとまず重視される(『考察する若者たち』、PHP新書)。

 ここで三宅は萌えを説明するために、東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を参照している。

 東は「データベース消費」を提唱したことで知られる。オタクたちは、作品の物語やメッセージではなく、キャラクターを消費している。しかも、そのキャラクターはさまざま萌え要素の組み合わせである。

 興味深いのは、東がこうしたオタクの消費行動を「薬物依存者」に喩えていることだ。

 オタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティッシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いように思われる。あるキャラクター・デザインやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変わってしまったかのように同じ絵や声が頭の中でまわりつづけ、あたかも取り憑かれたようだ、というのは少なからぬオタクたちが実感を込めて語る話である。それは趣味よりも薬物依存に似ている。(『動物化するポストモダン』)

 ところが、三宅は東の議論を参照しながら、「アディクション」の問題については触れようとしない。

アディクションに言論は太刀打ちできるか

 しかし、推しについて考えるうえでも、アディクションは無視できないはずである。

朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』(日経BP)

 実際、2026年に本屋大賞を受賞した朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』(日経BP)では、推し活や陰謀論といった物語への没入がドラッグへの依存に喩えられていた。また、三宅がたびたび参照する信田さよ子も、推し活が「アディクション化」しており、アイドルのファンクラブの仕組みが「ファンが自発的に溺れる」ように設計されている、と指摘する(『溺れながら生きる』、文藝春秋)。

 三宅の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』においては、新自由主義における「全身全霊」の労働が、私たちを読書から遠ざける原因とされていた。仕事に全力でコミットするためには、仕事以外の「ノイズ」を排除しなくてはいけない。自分とは異なる他者の文脈に触れ、あらかじめコントロールできない読書は、そのノイズの最たるものとなる。

 だからこそ、三宅は、仕事にすべてを捧げるのではなく、「半身で働く」ことの重要性を提案していたのだった。

 この本がベストセラーになったこと自体、われわれの労働への意識が変化したことを示しているのかもしれない。全身全霊で働くことが当然だと思われていたなら、この本自体がノイズとして遠ざけられ、これほど多くの人には読まれなかっただろう。「20年代は『ビジネスマン』が批評の読者になる」という三宅の発言も、時代の変化を敏感に感じ取ったものなのかもしれない(『いま批評は存在できるのか』、ゲンロン)。

浅田彰『構造と力』(中公文庫)

 ところで先日、ゲンロンカフェで三宅香帆さん、植田将暉さんとトークする機会があった。そのさい、三宅が、浅田彰『構造と力』(中公文庫)の有名なフレーズ「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」を用いて、自身の批評について説明していたのが印象に残った。

 資本主義を完全に否定するのではなく、そこに「ノリつつシラける」ことができる自分を持つこと。共同体のなかにいながらも、読書することでそこから離れること。推しを推しながらも、ファンダムの共同性から身を引くことーーこのように「いま」の風潮から「ズレる」ことに、本を読むことの意味の一つがあるのではないか、と三宅は語っていた。

 しかし、アディクションとは「シラけているのに、ノルことがやめられない」ではないだろうか。「シラけつつノリ、ノリつつシラける」と半歩ずれてみせ、新自由主義や共同体から逃走線を引こうとしても、いつのまにか絡め取られてしまう。むしろ、そうやって頭では距離をとっているつもりなのに、行動の水準ではやめられない。そこに、アディクションのやっかいさがあるのではないか。

 「半身で働くほうがいい」と頭ではわかっている。それでも、「全身全霊で働く」ことがやめられない。こうしたアディクションに陥りやすい構造を、いまの資本主義は持っているのではないだろうか。

 さて、ここまで長々と論じてきたが、だからといって、三宅にアディクションの問題系が存在しないということではない。むしろ、三宅の仕事のなかに常に潜んでいたように思われる。たとえば、次のような一節がそうである。

 たとえばSNSを眺めれば、他人が仕事の成果を報告している様子が目に入り、私たちは「もっと自分が輝ける好きな仕事をできるのではないか、そのための努力が足りないのではないか」と自ら感じてしまう。あるいはもう疲れ切っているのに、疲れていると思われたくなくて、「自分はこんなに仕事を頑張った、たくさんの情報を処理して、たくさんの成果を上げた」と自らアピールしたくなってしまう。
 決して、自分以外の外部に強制されているわけではない。
 自らで自らを競争に参加させ、そして自分で自分を搾取してしまうのだ。(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』)

 これは、まさに、「自発的選択を半ば強制されるという逆説」(信田さよ子)としてのアディクションである。

 さて、ここに浮かび上がるのは、言葉の力の限界である。これは三宅にかぎった話でもない。私もふくめて、言論にたずさわるものすべてがぶつかる壁だと思う。

 どれほど説得的で理性的な言葉で呼びかけても、読者がその主張に共感し、正しいと理解してくれたとしても、それだけでは人々の行動は変わらない。ましてや、社会全体はそうやすやすと変わってくれない。

 「(頭では)わかっちゃいるけど、(行動が)やめられない」のが、アディクションだからである。

■書誌情報
『「夫婦」不在社会』
著者:三宅香帆
価格:1,320円(税込)
発売日:2026年7月16日
出版社:講談社

『推したちとどう生きるか』
著者:三宅香帆
価格:1,034円(税込)
発売日:2026年7月17日
出版社:新潮新書

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