『呪術廻戦』続編、なぜ「熱狂」を生めなかった? 見逃すのは惜しい、本編との関連性を解説

『呪術廻戦』続編、なぜ熱狂を生めなかった

※本稿は『呪術廻戦≡(モジュロ)』単行本未収録の話のネタバレを含みます。未読の方はご注意ください。

 「週刊少年ジャンプ」で短期集中連載されていた『呪術廻戦≡(モジュロ)』が完結を迎え、5月1日にコミック最終巻(第3巻)が発売されることが決定した 。大ヒット作『呪術廻戦』の「その後」を描くスピンオフ作品であり、原作は芥見下々が担当、作画を『暗号学園のいろは』などの岩崎優次が務めるという強力な布陣で作られた本作 。物語が収束するに向け、その内容は話題を呼んでいた。

 しかし、正直に言えば、連載開始当初のこの作品を取り巻く空気は、決して今のような「熱狂」と呼べるものではなかった。なぜ開始当初は話題になりづらかったのか 。そして物語の結末がなぜこれほどまでに読者の心を打ったのか考えてみたい。

SF要素への戸惑いと様子見の空気

 本作は芥見の次回作として連載当初、予告では『モジュロ』とだけ題されていた。しかし蓋を開けたら『呪術廻戦』の続編的な立ち位置の物語で、ファンが抱いたのは、良くも悪くも“戸惑い”だったのではないだろうか。

 舞台は「死滅回游」の閉廷……本編完結から68年後という近未来(2086年)。そこへ突如「シムリア星人」という宇宙人が飛来する。もうこの時点で、“宇宙人”というSF要素が読者に対し「どういうスタンスでこの作品を楽しめばいいのか」という迷いを生じさせたかもしれない。

 また、そこには『呪術廻戦』と本作が持つ雰囲気の違いもあった。主人公の乙骨真剣・憂花兄妹(乙骨憂太と禪院真希の孫)が生きる時代は、かつてのような呪いの脅威が色濃くない。相対的に呪術師たちの実力も低下しており、前作特有の「いつ誰が死ぬかわからない」というヒリヒリした緊張感は、序盤においては鳴りを潜めていた。「過去の人気キャラの遺産を消費するだけのスピンオフになってしまうのではないか」という一抹の懸念を抱きながら、静かに「様子見」をしていたファンも多かったはず。

 それに加え、どれだけアニメが並行して放送され、世の中的に『呪術廻戦』の熱が上がっていようと、アニメ勢にとっては本編のネタバレにもなってしまうため、気楽に物語に触れることができなかった。そのためライト層には食指が伸びず、ミディアム層も単行本の発売を待っていた可能性など、SNS上に話題が上がりにくかったという背景もある。しかし、“お馴染みのキャラクター”の姿がチラつき始めてから更なる注目を浴び始めたのだ。

 『呪術廻戦』で虎杖悠仁の精神を弄んだ呪霊・真人や八握剣異戒神将魔虚羅、憂憂、釘崎野薔薇にリカちゃん(折本里香)などのお馴染みキャラクターが登場し始めてから、空気が一変した。本編との関連性が強調され、その流れで前作の主人公・虎杖の帰還を以って話題性も一気に高まったように思う。本編から68年が経過しているにもかかわらず、若々しい容姿のまま生き続け、五条悟に並ぶ「傑物」として伝説視されていた虎杖。彼が登場し、物語の核心に触れ始めたこと、並行して魔虚羅とダブラの戦いが壮絶さを増したところで、さまざまな要素が作品のテンション感を一気に高めた。

 そして最終局面、虎杖とシムリア星人のマルたちによって執り行われた「調和の儀」。神話的な印象さえあるこのシークエンスは、『呪術廻戦』の中で紡がれてきた歴史を考えると、さらに目頭を熱くさせるようなものなのだ。

「調和の儀」が成し遂げた、“悲願”

 「調和の儀」で彼らが何をしたのか。端的に言えば、「呪霊の生まれない世界をつくる」ために、日本人とシムリア人から呪力を無くしたのだ。

 ここで思い出されるのは、かつて『呪術廻戦』本編の「懐玉・玉折」編において、夏油傑と九十九由基が交わしたあの会話だろう。「呪霊の生まれない世界をつくる」——そのためのアプローチとして、九十九は「全人類から呪力を無くすこと」を理想としながらも、禪院甚爾という唯一のサンプルを失ったことでその道を断念していた。一方の夏油は、その理想からこぼれ落ちるように「全人類を呪術師にする(=非術師の皆殺し)」という、修羅の道へと走ってしまった。

 夏油が苦しみの中でただひたすらに願い、切望した“若き呪術師たちが無意味に命を落とさない世界”。誰かを排除することでしか叶えられないと絶望した、そんな世界が数十年の時を経て、虎杖たちが辿り着いた答えとして少しだけ実現する。かつて夢見た理想を、宇宙人という未知なる“隣人”との相互理解と「同調」によって成し遂げた。あの“青い春”から彼らが長く険しい道のりを経て辿り着いたからこそ、このラストのエモーショナルさが際立つのだ。

余りの物語が描いた「≡」とは何か

 本作のタイトルに冠された「≡(モジュロ)」という副題。数学において「モジュロ」とは、「ある特定の数で割ったときの余り」を示す言葉だ。これを本作に当てはめるならば、30巻で幕を閉じた『呪術廻戦』本編という巨大な物語の後に残った、いわば「余りの物語」であるとも解釈できる。

 しかし、原作者の芥見はこの「モジュロ」という読みを、「≡」という記号のルビとして振っている。この「≡(コングルエント)」という記号が数学的に持つ意味は、「別のもののように見えて実質的には同じ」ことを示す“合同”である。

 本編の「余り」として描かれたこの物語において、一体何が“合同”なのだろうか。

 宇宙人と地球人、呪力を持たない真剣と呪術師たち。一見すると生態も常識も異なる、まったく交わらない存在だ。しかし、彼らの外交問題を通して“隣人”について考えてみる。「呪いとは何か」、「生きること」の本質に眼差しを向けるような本編を経て、今回原作者の芥見がさらに深く描きたかったのは、そういった「他者との共生」という普遍的なテーマなのだ。

 虎杖とマルたちシムリア人の和解の道とは、まさにその違いを乗り越えるためのものだった。一見異なる存在であっても、「命」や「相互理解」という新たな基準を通せば、本質的な部分で等しい「合同(≡)」になれる。あの“青い春”から取り沙汰されてきた「未来の形」とは 、自分と違う誰かを排除するのではなく、違いを認め合いながら他者と“合同”になれる世界だったのだ。

 分断された世界を繋ぎ、残された者たちが手を取り合う。これから1人で生き続けなければいけない虎杖に想いを馳せながら、次の世代のこの選択と物語の結びを受けて、呪いが巡り、多くの者が命を落とした過去を振り返るように『呪術廻戦』第1巻にまた手を伸ばしたくなるのだった。

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