戸塚祥太、感情のない青年・ユンジェをどう演じた? 舞台『アーモンド』で見せた、身体と言葉の表現

言葉とは、身体の一部なのだということを、小説『アーモンド』を原作とした舞台を観て、改めて感じた。戸塚祥太(A.B.C-Z)さんが演じた主人公のユンジェは、幼いころに失感情症と診断された男の子。自分の感情をうまく表現することができないだけでなく、そもそも感じることが苦手で、他人とうまくコミュニケーションをとることができない。外部からの刺激によって感情を生み出す偏桃体が小さく、うまく作用してくれないせいだ。ユンジェの母親は、息子にアーモンドを食べさせ続けることに決めた。偏桃体とは、見た目も大きさもそっくりな扁桃(アーモンド)からつけられた名前だから。それが、タイトルの由来でもある。
舞台があまりによかったので、観劇後、すぐに小説を買って読んだ。韓国で40万部を突破し、2020年には本屋大賞の翻訳部門で1位を獲得しているから、タイトルだけは知っていたけど、物語に触れるのは初めてだった。ふだん、原作のある映像作品や芝居を観る際は、なるべく原作を先に読むようにしているのだけれど、今作は、舞台が先で正解だった。原作の文章を忠実に抜き出し、朗読するように語っていたから、ほとんど齟齬を感じなかったというのもあるけれど、先述した言葉の身体性というものを感じたことで、原作により深く沈み込めたような気がするからだ。
〈感情という単語も、共感という言葉も、僕にはただ実感の伴わない文字の組み合わせに過ぎない〉とユンジュは言う。そんな彼が、言葉や感情を覚えるために役立ったのが、母親が営む古本屋に並べられた数多の本だ。姿かたちが最初から具体的に決められすぎている映画やドラマ、マンガと違って、文章には余韻がある。文章が伝えようとすることの意味は、ユンジェの心にまったく響かないけれど、言葉を分解し、音を転がし、文字のかたちを自分でなぞることはできる。
〈同じ言葉を何度も何度も繰り返し言っていると、いつしか言葉の意味がぼやけてくる。(略)そうなってくると、ずっと遠くにあって僕には感じ取るのが難しい、愛とか永遠とかいうものが、逆に近づいてくるようにも感じられた。〉
ユンジェが神聖な遊びとして大事にしているこのくだりが、とても好きだった。私たちは日ごろ、意味にとらわれすぎている。わからないことに対しては苛立ち、怒り、不満を表明し、世界がすっきりとクリアに提供されることを望んでしまう。起きる出来事にはすべて意味があると信じたくて、物語をつくりだしてしまうし、その物語を大事にしすぎて、誰かとよりいっそうすれ違い、対立してしまうこともある。
でもユンジェは、ただそこにあるものを、そのまま受け取り、「わからない」ことをそのままおもしろがろうとしている。意味も、輪郭も、何もかも溶けてしまった先で浮かび上がる、光り輝くなにかに触れようと手を伸ばし続けている。感情をもたないまま、ただ世界のありようを知ろうとし続ける、その姿になんて美しいんだろうと惚れ惚れしてしまった。
その心象を、舞台上では舞踊のような身体の動きとともに表現していた。感情のわからないユンジェが、言葉を身体に溶け込ませて、手触りのあるものとして獲得しようとしていく姿を、筋肉の動きが一つひとつあらわになるような、ゆっくりとしたしなやかな動きで表現しながら、言葉を発する戸塚さんの姿に、言葉というのは身体から、内臓から、生まれるものなのだということを、改めて感じさせられたのだった。
クリスマスの日、通り魔に母と祖母が襲われ、目の前で祖母が息絶えようとも、ユンジェは顔色一つ変えなかった。怒りも悲しみも彼には湧かない。絶望して立ち上がれなくなることもない。病院で眠り続ける母の古本屋を、どうにかして続けようと、日々淡々となすべきことをなすだけだし、普通に暮らすことを望んでいた母のために高校にも通い続けた。
だからといって、何も感じなかったわけではない。痛い、寒い、おなかがすいた。生きるために必要な物理的な感覚を味わうように、彼を慈しみ守り続けた二人の不在を、ユンジェは確かに喪失としてとらえていたんじゃないかと思う。身体の一部がもぎとられたような痛みは、感情とは別のところで、じくじくと彼を蝕んでいたんじゃないだろうか。
「日本の作品が社会問題を描く時、悲しみは描いているんだけど、痛みは描いていない印象がある」と舞台のプロデューサー・宋元燮さんが語っている記事を読んだ。今作はもしかしたら、私たちの知らないかたちで、知らない痛みを抱え続けている人たちのことを描いた物語なのかもしれないな、と思えたのはたぶん、舞台を観たからだ。
一方、ユンジェとは正反対に感情を爆発させて周囲を傷つけ続けるゴニという少年も現れる。彼はいつも怒っていて、一見、わかりやすい。でも、彼の抱えている傷もまた、表面的な表情や態度からは決して推し量れない。感じることのできないユンジェだけが、先入観や思い込みを排して、彼の心の奥底にあるものに近づいていける。言葉を、文字を、分解して転がし、遊んでいたのと同じように。すべての意味が溶けてしまった先で浮かび上がる、彼の心の光にも触れることができるのだ。
他者とかかわりあうのは、本を読むように簡単にはいかない。自分の意志だけではどうにもならないことが多すぎる。わかったようなつもりになって、拒絶されてしまうことも。でも、それでも、自分に見えるものや感じるものに惑わされず、誰かの心に触れながら、ともに生きていく努力を惜しみたくない。本当は、わかっているような顔をしながら、誰しも他人の「わからなさ」におびえて生きているはずだと思うから。
かわいい怪物、とユンジェの祖母は孫を呼んだ。もうひとりの怪物、とユンジェはゴニを呼んだ。怪物でない人なんて、きっといない。この小説は、そして舞台は、心に痛みを抱えるすべての人に向けた物語なのである。
なお、舞台『アーモンド』の上演は終了したが、10月4日より約2週間、オンラインで限定配信される。これを機会にぜひ、原作とあわせて観てみてほしい。
参考リンク:https://almond-stage.jp/streaming.html























