【連載】柳澤田実 ポップカルチャーと「聖なる価値」 第三回:パーティー・ガールの実存主義 チャーリーxcx

4.自分という不条理を肯定する
規範を退け、現実の不条理を引き受けようとするチャーリーにとって、何より「不安定な自分」という不条理を受け入れることもまた重要なテーマになっている。この態度は彼女が再定義した元々は「悪ガキ」を意味する「Brat」という概念に端的に表れている。チャーリーの定義では「Brat」とは以下のように表現されている。
しばしばチャーリーの作品世界には強さと脆さの両面があると評され、アルバム「Brat」についても、自信に満ちた「360」、「Von Dutch」、「Mean Girls」のような曲と、傷つきやすさを表現した「So I」や「Sympathy is a knife」のような曲があると解説される。しかし本人自身の「brat」の定義にも明らかなように、基本的にチャーリーはマドンナやビヨンセのような「強さ」を誇示するスターというよりも、不安定さや混乱を繊細に表現することに長けたアーティストだ。その意味で、意外な人もいるかもしれないが、ブリトニー・スピアーズはCharliの音楽世界を理解する上で重要な存在である(※6)。2000年代の大スターだったブリトニーは、女性にこそ必要とされてきたポップアイコンだが、チャーリーはその感受性を共有しつつ「brat」という女性像を創出したように見える。
(※6) チャーリーはブリトニーが大好きだったこと、自分にとっての史上最高のポップソングは「Baby One More Time」であることをインタビューで明らかにし(https://www.tiktok.com/@fallontonight/video/7397812526060227871)、2013年以降数回に渡りブリトニーの楽曲にも非公式に参加している。また「Brat」に収録された「Spring Breakers」ではブリトニーの「Everytime」をサンプリングし、ライブでも「Everytime」のイントロを効果的に用いている
近年は奇行が報じられることが増えてしまったブリトニーだが、彼女に対する支持は根強く、米国だけでなく日本のメディアでも度々近況が取り上げられる。2021年のドキュメンタリー映画、2023年の自叙伝によって、彼女がルイジアナ州という保守的な地域で、幼少時から貧困と父親の抑圧に苦しみながらスターになる努力をしてきたことが公になった。しかし、ブリトニーに惹かれる人たちは皆、2019年に父親の後見人制度が明らかになって「Free Britney」運動が活発化する以前から、表面的には明るく元気なアメリカン・ガールそのものの彼女の背後に、暴力の香りを感じ取っていたのではないかと思う。思えば彼女のデビュー曲「Baby One More Time」も、一方でチャーリーが言う通り最高のポップソングだったのは間違いないが、他方で「Hit me baby」と繰り返す不思議な歌詞は、発売当初からDVを思わせると評されてもいた。(※7)
ブリトニーが体現する像は、デヴィット・リンチの『ツインピークス』のキャラクター、ローラ・パーマーにも重なる(※8)。彼女たちは、文芸評論家のアリス・ボリンによってアメリカ人の強迫観念としての「死んだ少女たち(dead girls)」と評されている。ボリンは、米国の映画、ドラマ、小説などで、少女(たいてい金髪の白人)が親族の男性によって殺され、それを同じく白人の男性捜査官たちが捜査する過程で自分探しをするという設定が多いことを指摘し、こうした女性たちは「男性の問題を解決するための中立的な舞台」になっていると分析した。ボリンによれば、ブリトニーもまたこの系譜に属し、「生きながら死んでいる少女」として、その不幸な生い立ちやゴシップが消費されてきたと言う。こうした「死んだ少女たち」の物語は、米国における家父長制と女性の従属を固定化しているとボリンは論じた。
ボリン自身はこの文化事象を単純な悪として裁かずに論じているが、これを「ミソジニー(女性蔑視)」のような大きな概念に還元してしまうと、ブリトニーやローラ・パーマーを愛する女性たちの微妙な心理を取り逃してしまうように思う。ブリトニーやローラを愛する女性たちは、虐待を肯定しているのではなく、不条理な状況を生きざるをえない彼女たちの混乱に共感している。無垢であることを大切にしているブリトニーやローラは、自分が被っている暴力が何なのか正確に把握することができずに混乱し、薬物や性的放埒などの道徳的に堕落した状態に陥り、その状況にさらに絶望を重ねる。ブリトニーは性的な純潔を重んじるキリスト教保守の福音派の文化で育ったことで知られ、こうした幼少時に教え込まれた純潔主義とセクシーさを強調する音楽業界の方針との齟齬が彼女の精神にダメージを与えたという分析もある。一方で大事だとされている清純さがあり、他方で全く違う放埒を求められるという不条理とそのことがもたらす心理的混乱は、実は多くの女性が体験していることで、だからこそブリトニーたちは同じような経験をした女性に必要とされてきたし、何より彼女たちを「美しい」と認めることが必要だったのだと思う。
ブリトニーを取り巻く悲劇については「#MeToo」運動以前だからこそ問題視できなかった出来事として語られることが多いが、たとえそれ以降だったとしても、彼女が「#MeToo」運動をしたかどうかは疑わしいように思う。ブリトニーは、混乱を整理できないままに、正直に表現できるという意味でこそ、稀有な人物であり、ポップスターだったからだ。その表現力は何よりチャーリーも「Spring Breakers」でサンプリングした「Everytime」のような名曲に表れている。彼女が体現する繊細さや愚かさ、いわば不条理の美しさは、全てを合理的に裁くことだけが正解だと思えない女性たち、そしておそらく女性以外の人々を救ってきた。
(※7) この「Hit me」という歌詞は、この曲を制作し、ブリトニーのプロデューサーであるスウェーデン人のマックス・マーティンのアメリカのスラングへの誤解から生まれたと言う。この不可解な歌詞を嫌がって、当初この曲の提供を持ちかけられたバックストリートボーイズもTLCもこの曲を歌うことを断っていた。(https://www.theringer.com/2025/06/16/music/nora-princiotti-hit-girls-book-excerpt-britney-spears-taylor-swift-pop-music)
(※8) シネフィルとして知られるチャーリーはデヴィッド・リンチのファンでもあり、過去に「『ツイン・ピークス』のファンはパーティーピープルだ」と発言しているリンチの動画をストーリーで流したこともある。また同作品で主人公のクーパーを演じたカイル・マクラクランはチャーリーの大ファンである。(https://www.nme.com/news/tv/kyle-maclachlan-goes-brat-in-charli-xcx-instagram-post-this-feels-like-a-twin-peaks-episode-3795302)
ブリトニーを敬愛するチャーリーは、一方で不条理の美しさを愛する感受性を保ちつつ、他方でその感受性に溺れすぎず、半分距離を置く自意識を立ち上げている点がとても新しい。その自意識は耽溺を許さないクールな音色として表現されていて、特に彼女のオートチューンの多用は、エモーショナルに混乱する自分への絶妙な距離感とユーモアをかもしだす仕掛けになっていると思う。もともとはYe(カニエ)にインスパイアされ、しばしば年長の音楽マニアに批判されるこのオートチューンは、どこかバカバカしく、深刻なことを深刻にし過ぎない効果がある。チャーリー自身そのことをテレビ番組「サタデー・ナイト・ライヴ」でネタにしてもいた。
現実は不条理だけれど、簡単に裁くことはできない。だから、不条理な現実に心が乱れるならば「パーティーする」。これが混乱や愚かさ(不条理absurdは「馬鹿馬鹿しいこと」も意味する)を肯定する「Brat」の一貫したスタンスなのだろう。
5.実存主義者の教会としてのクラブ
以上のように、社会的規範に懐疑的で、混乱や愚かさをそのまま肯定する自由と自己決定を重視するチャーリーが描く作品世界はとても実存主義的に見える(※9)。実存主義は、その起源は19世紀にありつつ、主に第二次世界大戦後にフランスから広まり、日本を含めた世界中で流行した哲学だ。戦争が終わった開放感がありつつも、ホロコーストや原爆投下などの出来事によって人間の残虐性を思い知った人々は、神はおろか人間の自然本性への信頼も失っていた。「何も信じられない」という状況で、それでも生きるための決意を「実存(existence)」という概念によって語ったサルトルの哲学が、自由と絶望を痛感する若者の中で広まったのだった。
サルトルの実存主義の第一の定式は「実存は本質に先立つ」、第二の定式は「人間は自由の刑に処せられている」である。第一の定式は言い換えるならば、「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」ということで、人間にはあらかじめ定められている本質はないということを意味する。従って、人間は「自分のことを自分で決定するしかない」という仕方で、自由のなかに運命的に投げ込まれていることになる。それが第二の定式が意味するところだ。この状況が「刑」と言われるのは、自由であることは同時に孤独を意味し、不安や絶望を背負わざるを得ないからである。不安と孤独のなかでの決断を引き受けることで、人間は人間になると考えられている。
チャーリーの「Brat」は、先に示してきたように、女性として生きることの不安や混乱、それを受け入れ決断することの開放感をテーマにしていた。この作品が基調とする不安感と開放感は、コロナ禍が明けた開放感と「突然元に戻ったものの、これから先一体どうなっていくのか」という不安、つまり文字通り2024年の夏に人類が直面していた実存的な危機を引き受けた作品だったからこそ、多くの人たちの心を掴んだのだのかもしれない。Boiler Room史上最多の観客を集めたという2024年に開催されたClub IBIZAでの彼女のパーティーやそれに先立つNYでのパーティーには、実存的危機をパーティーによって乗り越えようとするかのような鬼気迫る熱気があるのも事実だ(とにかく人の数だけでも尋常ではない!)。
(※9) 言うまでもなくチャーリーの実存主義的発想は、その全てがサルトルの哲学に当てはまるわけではないし、サルトルの哲学自体、特にマイノリティに関する記述など、現代の文脈では相当時代遅れな部分があることは否めない。
「パーティーは単なるパーティー以上のものだ」、「クラブやパーティーは誰かにとっての教会になりうる」と語るチャーリーの実存主義は、おそらくクラブを体験している人の多くが経験的には知っていたクラブ経験の実存主義的性格を、小難しく理論化するのではなく、ダンサブルなポップスとして形にすることに成功した。例えば「Club Classics」には、「I wanna dance to me, me, me, me, me. When I go to the club, club, club, club, club (Club)」というリフレインされるフレーズがある。
チャーリー自身もSNSでネタにしていた、あまりにも「そのまま」過ぎるユーモア溢れる歌詞だが、これこそクラブで体験される実存的な経験の描写だと言える。溢れる光と音の洪水のなかでたくさんの人が自分と共にいる。その中で、自分は自分とだけ向かい合って踊る。この共存と孤独が両立する体験こそダンスフロアで経験されるもので、それを表現するためにチャーリーは、酩酊していながら冷静で、人工的であると同時に生々しい、アンビヴァレントなサウンドを作り出した。チャーリー自身はエレクトロニックミュージックの両義性について以下のように語っている。
「悲しみと美しさ、そして沈黙がある」——聴くだけで、自分の中で化学反応のようなものが生まれる」
矛盾こそ、実存主義の核心をなしている。
実はサルトルが実存的不安を乗り越え、生きる意味をを見出したのも音楽だった(※10)。彼の場合それはジャズだったが、おそらく二十世紀前半にジャズが担っていた役割を、現代のクラブミュージックは担っているのだろう。クラブに通うチャーリーのファンたちは、「クラブでのダンスをほとんどスピリチュアルな修行のようにみなしている」という報告もある。私たちが音楽を聴き、踊るのは単なる現実逃避ではなく、実存主義的な決断なのだと言ったら、多くのパーティーピープルは「そんな大袈裟な話ではないよ」と笑うかもしれない。しかし、価値観がますます多様化し、無数にある選択や決断の可能性に押しつぶされ、かえって自由を失いかけているような2020年代にあって、ダイレクトに音を知覚する音楽体験が「紛れもないこの自分として生きる」ことを決断する助けになってくれていることは間違いない。
(※10)サルトルの小説『嘔吐』(1938年)の最後に、主人公のロカンタンがレコードでジャズの名曲「Some of these days」を聴き、実存的苦悩から解放される場面が描かれている。また1947年には『The Saturday Review』29号に「I Discovered Jazz in America」を寄稿している。
























