アニメーター・金山明博が語る手塚治虫の素顔 新人相手にも意見を求める飽くなき向上心エピソード

金山明博が語る手塚治虫

『ぼくはマンガ家』(手塚治虫/著、立東舎文庫/刊)

 2月9日は日本の漫画・アニメーションの歴史に大きな足跡を残した手塚治虫の命日である。この日、『あしたのジョー』の作画監督や『超電磁マシーン ボルテスV』のキャラクターデザインなど、数々の名作アニメに関わったアニメーター・金山明博の公式Xが更新された。金山は、手塚が設立した虫プロダクションでアニメーターとしてのキャリアをスタートさせたが、当時の思い出をつづっている。

 その日、金山は劇場版『千夜一夜物語』の原画を、虫プロダクションの第二スタジオで作画していた(アニメの公開は1969年なので、1968~69年頃の出来事と思われる)。そんなとき、社内の動画机で、手塚はエッセイ『ぼくはマンガ家』の原稿を物凄いスピードで執筆していた。そして、突然手塚は金山のもとを訪れ、こう相談してきたという(※)。

(手塚)先生は、僕みたいな新米アニメーターに執筆中の原稿をたびたび『どうですかどうですか?』って原稿を見せにこられました。

巨匠の原稿を評価するなど、僕にはとてもできません。気が動転して、あの時気が動転して何を話したか全然覚えてません。

 金山は幼いころに手塚の『新寳島』や『ロストワールド』を読み、漫画家を志した。その後、貸本漫画家としてデビューを果たすも、1965年に虫プロダクションに入社してアニメーターに転向。手塚のもとでアニメーターとしてのいろはを学び、『ジャングル大帝』で初めて動画を手掛けた。それゆえ、憧れの手塚の原稿に意見するなど、とても恐れ多い、という心境だったに違いない。

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