カンザキイオリ × 梶裕貴 対談【後編】「人に愛がある限り自由なんて無い」

カンザキイオリ×梶裕貴 対談【後編】 

カンザキ「そもそも創作って自分一人だけでやるものではない」

――『自由に捕らわれる。』は、自由をテーマに、主人公が大人になっていく姿も描かれているように思いました。お二人に聞きたいのですが、若かった当時と大人になった今では、どちらが自由だと思いますか?

梶:僕は、不思議と演じる役が自由を求めがちなのですけど(笑)、それはきっと、自分のなかにそういう素養が多くあるから、そういった役とのご縁があるのだろうなと思っています。

カンザキ:梶さんは、自由を求めているのですか?

梶:う~ん。「そんなに不自由とは思っていない」というくらいでしょうか。恵まれている部分もあると思うので、その点では、自分が生きて来た環境に感謝しかありません。ただ、自由の定義が難しいですよね。

カンザキ:私はあまり良い家庭環境ではなかったし学校生活でもあまり良い環境を築けなかったので、そういう意味では満足はしていなかったと思います。もっといっぱい創作をしたいという意味では、今も満足していないと言えばしていないし。だけど自由という意味では、今のほうが、どこの事務所にも所属していないし、いろんな人に支えてもらった上で放任されているので、その部分での自由はめちゃくちゃあります。ただ、そうは言っても生活もありますし、仕事で支えなければいけない人もいますので、だから、“人に愛がある限り自由なんて無い”のではないでしょうか。

梶:ああ、確かにそうですね。「自由の大きさに比例して、責任が伴う」と言うか。だから子どものころは、子どもなりの自由しかない代わりに、子どもでも負える程度の責任しかなかった。今はやれることが増えた分、やったときに背負う責任も大きくなる。ただ、責任を取る覚悟で行動していれば、おそらくそれを不自由だとは思わないでしょうから。逆に、責任を取るリスクを恐れたり避けたりしながら得る自由は、きっとすごく息苦しいものになるかもしれませんよね。

 "自由"と"責任"は表裏一体で、自由を得るには覚悟が必要です。自由の定義は人によって違うとしても、自由そのものにはどれくらいの覚悟があって、具体的に何をしたいかという意思が問われるのではないでしょうか。人に迷惑をかけない自由だったら、やろうと思えば誰にだってやれるし、そこで生きていかなきゃいけないとか、生きていきたいとか、誰かを生かさなきゃいけないとか、そういう覚悟があったうえでの自由には責任、そして覚悟が伴うものだなと思いますね。僕は基本的にそういうものがある前提で生きていますし、むしろそれがあった方が戦える人間だと思うので、自分のことを決して不自由だとは感じていません。

――お二人のお話からは、一人で得られる自由など無いのだと感じました。『自由に捕らわれる。』の主人公・姿夜くんも、いろんな人と関わりながら、自分で自分に新たな役目を与えながら自由になっていきます。あらゆる創作も世に放つためには人との関わり合いが必要ですし。

梶:そうですね。社会があって、そこに捕らわれるものがあるからこそ、生まれるのが自由なのかもしれません。一人だったら自由という概念すら無いわけで、相手とか社会が存在しなければ自由は無いものだとしたら、そこに苦しみが生まれるのも必然でしょうから。

カンザキ:タイトルの意味が回収されましたね。私的には、なにをやったとしても責任が伴うという意味で、自由ってそれほどいい言葉ではないという思いがあって、当時「自由に捕らわれる。」というタイトルを考えたんですけど、逆に「捕らわれてこそ自由がある」という考えは、確かになって思いました!

梶:僕は、自分のなかの「もっと、もっと」という“欲”みたいなところを"自由"に置き換えて話をしているような気がするんですが、カンザキさんの小説の登場人物たちは、本来、当然自由であるべきところで、それに捕らわれなきゃいけない環境というのが苦しいなと、毎回思います。"当然"というのも誰が決めたんだという話で、長い人間の歴史のなかで、何が普通で何が当たり前かというのは、永遠に答えが出ないものではありますが。そもそも"普通"の定義とは、それこそ何なんだという……。

 まあ、ゴールのないであろう議論をしていても仕方ないので話を戻しますが(笑)、なにも間違ったことをしていなかったり、考えてすらいなかったはずなのに、周りから押し付けられた常識みたいなところに苦しめられて、本来持っているはずの自由が損なわれていくっていうのが、どうにもしんどくて。

カンザキ:難しいですね。この『自由に捕らわれる。』は、本来はなにかを伝えるために書いたわけではないので、この本でなにを伝えたかったのか、私自身もまだしっかり言葉にはできていないのが正直なところです。それは書いたことで達成感があり過ぎてしまって、じゃあこれってどういう作品なのか、自分のなかでまだ消化できていないので、だから言語化がすごく難しいんです。とてつもなく。

――では最後に、この『自由に捕らわれる。』を、どんな人に読んでほしいか、誰に薦めたいか教えてください。

カンザキ:私がまだ“青さ”だけで曲を書いていた時代、前の事務所のマネージャーさんがエレベーターで、「創作は自己満足を見せるのが正解ではない」ということを言っていて、その言葉がすごく響いて今も心に残り続けています。でも『自由に捕らわれる。』は、私の書きたいことだけを書いた作品で、独立したばかりだったから本当は商業のことを考えなきゃいけなかったんだけど、全て私の自己満足でできたような作品です。だからあのときのマネージャーに「ごめんね」って言いたい。それと同時に、「でも私はこれを書いたよ!」って読ませたい。ファンの方はもちろんだけど、今は私がこれまでお世話になった人に、「自由のなかに放り出された状態で、書きたいことを書いたよ」って言って、この本を渡したいです。

梶:なるほど。

カンザキ:そもそも創作って自分一人だけでやるものではないと思っているので、いろんな人が関わってこそだし、それこそ文字を書くのだってちゃんとした文法を分かっていらっしゃる編集者さんがいてくださってこそだし、創作をするうえでは、基本的に一人じゃないと思っていて。梶さんに朗読していただいたことも、人となにかをやることで、新しい自分を具現化してもらえて、そこで一番救われたのはきっと私自身です。今日も梶さんがうれしいことをいっぱいおっしゃってくださって、気持ちを言葉として具現化してくれて、あの当時、嫌な環境のなかで私が抱えていたことを掬えてもらえたことがうれしくて、本当に携わってくださってありがとうございます。

梶:いえいえ、とんでもないです! 大切に大切に、何度も読ませていただきます。この対談の最初に「カンザキさんの作品は十代をはじめとする多くの若者たちに響く」みたいな話をさせていただきましたけど、『あの夏が飽和する。』がそうであったように、この『自由に捕らわれる。』も、まさにそうだと思うんです。キャラクターたちの心情が等身大だからこそ、今を苦しむ彼らに刺さるんだろうと。

 でも、どんな大人でも、かつてはみんな子どもだったわけで。そう考えると、読んでいる中で、必ずいつかのタイミングの自分がよぎる瞬間があると思うので、推薦対象は「どなたに」と言うよりも、すべての「あなたに」だと思います。何はともあれ、まず読んでみていただきさえすれば、過去の己の、人にはあまり言いたくないような濁った記憶が炙り出されて、鮮やかで、生々しい感情が呼び起こされる機会になるんじゃないのかなと思います。それはとても刺激的なことで、これからを生きていくために、きっと必要な経験のような気もします。『自由に捕らわれる。』は、若者はもちろん、かつて子どもだった大人の皆さんにも、ぜひ読んでいただきたい作品ですね。(梶裕貴 × カンザキイオリ 対談【前編】「“創作”は社会で生きていく術であり、命をかけているもの」はこちら

■書誌情報
書名:『自由に捕らわれる。』
著者名:カンザキイオリ
仕様:四六判/並製/476頁
税込価格:1,540円(本体1,400円)
発売日:2024年8月23日
ISBN:9784309032054
URL:https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309032054/

■関連情報
キャラクタープロジェクト「そよぎフラクタル」
https://www.soyogi-fractal.com/

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