藤子・F・不二雄は“老い”の問題とどう向き合ったのか? 晩年の悲哀を描ききった『じじぬき』

藤子・F・不二雄は老いとどう向き合った?

 同時に、この「あきらめ」に対して、藤子・F・不二雄は自覚的である。先ほど『定年退食』における「あきらめ」について少し言及したが、ここでの「あきらめ」は逆に考えれば、新しいシステムを補強する姿勢であるとも言えよう。老人たち、ひいては世間全体が老人を切り捨てる政策を容認することによって、いわば現代の姥捨て山は自明のものとなり、単なる法律上の文言の変化にとどまらず、社会の価値観もまたそれに沿ったものに変化していくであろうことが、『定年退食』のラストでは示唆される。

 なにもそれは悲劇とは言い切れない。大きな組織や共同体のなかでは、その構成員の満場一致でものごとが進むというケースのほうが考えにくいだろうし、よりミニマムな、家族という単位における意思決定においてもまた然りである。むしろ日常においては、自分の意に沿わない事態に絶え間なく対峙して、細かな「あきらめ」をその都度覚えることがルーティンでもあるだろう(『じじぬき』ではたとえば、子どもたちの好物だからという理由で、ガンさんが嫌いなハンバーグが食卓に出されている冒頭のシーンが印象的である)。『定年退食』における「あきらめ」はどちらかといえば社会に対して向くものだが、『じじぬき』における「あきらめ」は、より日常的な視点に立脚しており、だからこそ読者にとっても身近なものに感じられる。

 もちろん、どうしても許容できない不条理に対して個々人が声をあげることを否定するつもりはないし、それにより社会や組織、また家庭の動きが是正されるケースも無数に存在するだろう。ただ、生きるうえでは、目の前の不条理にどうしても折り合いをつけなくてはならない局面が、また無数に存在することも事実なのだ。『じじぬき』では、ひとつ目は妻による、ふたつ目は「生き返り」ののちのガンさん自身による、それぞれ異なった「あきらめ」を描くことによって、人が人生で対峙する不条理を鮮やかに浮かび上がらせる。

 『じじぬき』の登場人物のなかで、「悪い人」は一人もいないと言っていい。みなガンさんのお通夜では、その死を悲しみ、本気で泣く。作中で、激高したガンさんから最後通牒を叩きつけられる長男にしても、自身の父と、ガンさんへの厳しさが目立つ妻との板挟みで苦悩している様子がうかがえるし、むしろ彼のほうに感情移入をする読者もけっして少なくはないだろう。

 明確な「悪い人」がいなくても、どこかの綻びからまちがいは生まれうるし、そのような覚えは読者の誰にでもあるだろう。みな心のなかでは自分なりの道徳や思いやりを保ったままで、しかし、どうしようもないことへの「あきらめ」を覚えることで、誰かを傷つけ、また自身も傷つけられてしまう。

 ラスト、すべてを受け入れ、微笑を浮かべるガンさんや老妻の姿には、おだやかな温かさとともに、人間が生きる上での悲哀もまた感じられる。それは『定年退食』におけるラストの主人公の微笑にも通底するものだ。年齢を重ね、相応の不条理を味わってきた彼らにとっては、それは身に着けるべくして身に着いた姿勢でもあっただろう。2作の執筆時、まだ30代であった藤子・F・不二雄が、枯淡の境地とも言えるこうした悲哀を描き切ったことに、改めて脱帽してしまう。

■番組情報
「藤子・F・不二雄SF短編ドラマ シーズン2」
第6夜「じじぬき」
放送局:NHK BS
放送日時:2024年5月12日夜9時45分
番組公式サイト:https://www.nhk.jp/p/ts/4JZM8MV1Q2/episode/te/QZ32ZL3WRR/

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