「大食い大会に飲酒部門も」江戸時代の日本人と食事情ーー外食と飲酒文化
国立科学博物館で開催中(2024年2月25日まで)の特別展「和食 ~日本の自然、人々の知恵~」が好評のようである。 そもそも元禄以降の日本人は何を食べていたのだろうか? 幕末の下級武士、尾崎石城(1829-1876)が遺した「石城日記」の通称で知られる絵日記は1861年から1862年までの178日の間に綴られたもので、石城は律儀にその日食べたものを記録に残している。 今回は「石城日記」を元に江戸の食生活を見ていくとしよう。
※本稿は全体として石城日記を取り上げた大岡敏昭氏の『武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景』と、漫画家で江戸文化研究家だった杉浦日向子氏の『一日江戸人』を参考としていることをお断りしておく。
■江戸の外食産業
江戸の人口構成は、男女比が極端にアンバランスだった。その割合は女性1人に男性2人弱である。男女比がアンバランスになったのは、江戸には田舎から単身で奉公や出稼ぎにくる男性が多かったからだ。
江戸が男の街であったことを考えると、吉原遊郭の誕生は必然と言えるかもしれない。出稼ぎ=労働者の街であるため、必然として外食産業も発展した。石城の日記をみると、外食が多く、江戸時代に外食文化が如何に定着していたかがよくわかる。
現代の異国だが、シンガポールにはホーカーという屋台のような簡易的な飲食店がある。シンガポールは外食産業が盛んで、ホーカーは物価の高いシンガポールにあって安価で飲食物を提供している。シンガポールも出稼ぎ労働者の多い国だ。江戸とイメージが重なる。
江戸文化歴史検定協会(編)『江戸諸国萬案内』では一章まるごとを外食産業の紹介に費やしている。現代の浅草と言えば仲見世だが、当時の浅草には屋台街が出来ていたそうだ。日本の建築は木造が伝統的である。火を使う天ぷらは当初、屋内での調理が禁じられており必然として屋台の定番料理になった。前述した『一日江戸人』にも江戸外食産業の代表例が紹介されている
代表的なものを挙げていくと以下のようなラインナップになる。
・テンプラ
・握りずし
・いなりずし
・ソバ
・茶飯
・かりんとう
水売りというのもあったが、これはただの水ではなく砂糖を加えたもので、当時の清涼飲料水のようなものである。
■江戸っ子と飲酒
石城はかなりの酒好きであり、資料を読んだ印象では飲んでいない日の方が少ない。『イスラム飲酒紀行』『イラク水滸伝』などで知られるノンフィクション作家の高野秀行氏は「ここ三年、酒を口にしなかった日は二,三日しかない」(『イスラム飲酒紀行』)と豪語するほどのかなりのレベルの酒飲みだが、石城もかなりいい勝負である。
江戸っ子には酒飲みが多かったらしく、度々開催される大食い大会に飲酒部門があった。天堀屋七右衛門という73歳のご老人が、五升入りの杯を飲み干した記録が残ってる。五升なので役9000ml、およそ9lである。
もっとも酒豪の七右衛門老人もさすがにただでは済まなかったらしく、帰宅途中で寝てしまい、翌朝、湯島聖堂の土手でひっくり返っているところを家族に発見されたそうだ。江戸っ子はとにかく酒飲みが多く、ゲン担ぎのために朝から飲む者もいたとのことだ。ステレオタイプな江戸っ子のイメージ「喧嘩っ早い」は常に酔っていたのが原因との説もある。