漫画家・今日マチ子、神待ち少女と向き合って考えたこと 「10代の女の子たちが大人と同じように分別がつけられるわけない」
『センネン画報』(太田出版)『みかこさん』(講談社)など、思春期の少年少女を題材とした作品で知られる漫画家の今日マチ子氏が、「神待ち」の実態と少女たちの孤独の闇を描く問題作『かみまち』(集英社)の上下巻が、8月18日に刊行された。
母親の束縛に耐えられず家出をした高校1年生のウカや、義父から虐待を受けて自分は“泥まみれ”だと苦しむナギサなど、シェルターの「神の家」に集まった4人の家出少女たちの苦しみを、著者ならではの視点で生々しく描写した本作は、Webで公開されるや否や大きな反響を呼んだ。
センセーショナルなテーマと向き合うにあたって、著者はなにを想ったのか。今日マチ子氏に話を聞いた。(編集部)
無関係の人間が突っ込んでいくことも必要なのではないか
――『かみまち』の主人公・ウカが、過剰な母親の支配から逃れるため、長く編んだみつあみをハサミで切り捨てる冒頭の場面が印象的でした。同時期に刊行された『すずめの学校』でも、母の意思から離れる娘がみつあみを切り落とす場面がありますね。
今日マチ子(以下、今日):『みつあみの神さま』など、少女のモチーフとしてみつあみを描くことはこれまでも多かったんですけど、最初は無意識だったんです。見た目がかわいいな、っていう、それだけの理由です。ただ、『すずめの学校』を描くにあたり、子どもを小学校受験させた親御さんの話などを聞いているうち、ショートカットの女の子がほとんどいないことに気づいたんですよね。ある程度の長さになったらみつあみにせねばならない、と校則で決まっている学校もあるようです。
――ただ括るだけじゃだめなんですね。
今日:ボーイッシュで髪の短い子は、ちょっと浮いているところがある、という話も聞きました。小学4年生くらいになって、自分で身支度ができるようになると、みつあみは大変だからとおかっぱにする子はいるらしいんですが、みつあみにできる程度の長さがあって、きちんと編みこまれているということが、どうやら〝良い女の子〟を象徴するものであるらしい、と気づいてからは、意識的に描くようになりました。だから、ずっと〝いい子〟だったウカはお母さんが毎朝、丁寧に編み込んでくれるみつあみに。
――対して、神待ち……家に帰ることができず、一晩の宿を提供してくれる〝神〟を求めてさ迷い歩く少女の一人であるナギサはショートカットですね。
今日:ウカとちがって、ナギサは自立せざるを得ない環境で育ってきたから、自分で手入れのできる長さであったほうがいいな、と。それに、みつあみって親が子どもに手間暇かけてくれることの象徴でもある気がしたんです。私自身、小学校高学年くらいのときに、みつあみに憧れて家族にやってもらっていた時期があるんですよ。ところがある朝、突然「自分でやって」と言われた(笑)。
――めんどくさかったんでしょうね(笑)。
今日:毎日、朝の忙しい時間帯にやってられるかっていう気持ちは、今ならわかるんですけど(笑)。
――でも、キレずに毎朝それをしてくれるからといって、ウカの母親が向ける愛情がいいものとは限らない。ナギサの母親も、決して愛していなかったわけではないけれど、再婚相手からの性的虐待に気づいていながら見て見ぬふりをしてしまう。対照的な二人が、どちらも家にいられずに飛び出し、出会うまでの過程は読んでいて胸が痛かったです。今日:神待ち少女、というテーマは、戦争ものを描いたときと同様、編集者さんからの提案で、私自身のなかにはもともとないものだったんです。でもだからこそ描かなきゃいけないんじゃないか、と今は思うようにしていて、当事者だけが「こんなことあったよね」「ひどいよね」という話に落着させてしまうと、問題が表面化することなく何も変わらずゆきすぎていくのではないか、私のように無関係の人間が突っ込んでいくことも必要なのではないか、と思って取り組んでいます。ただ……モデルにした第二次世界大戦は、すでに終わった話じゃないですか。もちろん、今も世界のあちこちで起きてはいますけど、扱う題材は過去のもので、傷ついた人たちのほとんどは今、この世にはいない。だけど神待ち少女たちは、現実に今も存在していて、町をさ迷い歩いているんですよね。
――実際、会ってお話も聞いたんですよね。
今日:聞きました。性加害など、心が本当に死んでしまうようなつらい体験を聞かせていただいたからこそ、失敗できないな、と思っていました。なんていうか……みんな、子どもなんですよね。見た目がどんなに大人びていても、大人にはなりきっていない、中高生の子どもたち。もちろん、彼女たちにも意志はあるから、自分で決めて選択して今の状況にあることは事実なんですけれど、そのすべてを彼女たちの責任として断じるのはどうなのか、とも改めて思いました。10代の女の子たちが、段階も踏まずに大人と同じように分別がつけられるようになるわけないのに、なぜか15歳くらいになると全部一人でできるだろうって思ってしまうところが社会全体にもあるんじゃないかな、と。
――特に今は、自己責任を問う風潮が強いですし。
今日:他にできることがあったはずだ、努力をしなかったからだ、と切り捨てるのは簡単ですが、それじゃどうにもならないんですよね。「自分は努力したからこそどん底から這い上がれた」なんて言えるのは結果論でしかないですし、そもそも、当たり前に本を読むことのできる層がそういうことを言えてしまうのが問題だなと思います。
――選択肢がないからこそ、最悪の一手を選び続けてしまう。そんな少女たちの追い詰められていく過程が、『かみまち』ではさまざまに描かれています。
今日:非行少女だからしかたがないとか、親がどうしようもないとか、耳に入る情報だけでひとくくりにして切り捨てるのではなく、どうしてそんな結果になってしまうのかを多角的に考えたい、という想いもありました。でもだからといって「親が悪い」とも言いたくなかったんですよ。実は、SNSで一部を無料公開したとき、ナギサの母親にものすごく非難が集中したんです。こんな母親ありえないとか、こういうことが起きるからシングルマザーはよくよく気をつけなくちゃいけないんだ、とか。ショックでした。だって、悪いのはまず加害した義理の父親ですよね。でも、感想を見ていると、「男がひどい」よりも「あんな男を家に入れた母親が悪い」みたいな論調のほうが強いように感じられて……ナギサのお母さんは、たまたまよくない人を引き当ててしまっただけなのに。
――お母さんは、ナギサのために再婚した部分もあっただろうことは、作中からも読みとれますし。
今日:『かみまち』を描く以前から、現実でも事件が起きると「母親は何をしていたんだ」という意見が強めに出ることに違和感があったのですが、母親という立場はなぜか批判にさらされやすいのだなということを改めて感じました。もちろん虐待はいけないことだし、大人は子どもを守るべきではあるんだけれど、母親だって一人の人間なのだから、それぞれに事情と考えがあり、何もかも子どものために周到にふるまうわけにもいかないのだということは、ちゃんと描きたいと思っていました。親も根っからの悪人ではなく、それぞれが抱く理想や愛がなんらかのかたちでこじれてしまった結果でもあるのだろう、というのは、神待ち少女たちを取材するなかでも感じたことなので。
――それは、だから許せ、ということとは違いますよね。
今日:そうですね。「神の家」を運営していたおじさんも、ウカのように身を寄せた少女たちを支配してひどいことが起きますが、その罪は罪として、なぜ彼がそんなことをするに至ってしまったのか、彼自身の心の闇みたいなものも、描きたかったことですね。
――おじさんは薄気味悪かったですが、その背景がちらりと描かれることで、犯罪を起こすのは私たちと無関係なサイコパスではなく、痛みを知る普通の人間なんだ、ということも伝わってきて、より怖かったです。
今日:少女たちに手を差し伸べ、慕われ、そして支配することで削られた自己肯定感を高めようとするおじさんは、最悪だけど、納得できる部分もあるなと私自身、思いながら描いていました。選択肢がないから追い詰められる、という話がありましたが、世界が狭まってしまうと、本人に悪気がなくても、悪いことをしようとしていなくても、ひずみが生まれてしまうことってあると思うんですよね。そしてそれは、家庭内でも容易に起こりうることだし、自分がそうなってしまったらまずい、と常に危機感を抱いているところがあるので、恐怖の対象として描くことが多いのかもしれません。