冒険家・角幡唯介が犬橇を始めた理由とその目論み 「犬と人間が一致団結するというのはファンタジーに過ぎない」

冒険家、角幡唯介が犬橇を始めた理由

 探検家であり作家である角幡唯介氏の「裸の大地シリーズ第二部」『犬橇事始』(集英社)が先ごろ刊行された。第一部『狩りと漂泊』では、橇を引き、犬一頭とともに徒歩でグリーンランドの極地へと旅に出た。目標に到達することを至上とする直線的な行動へのアンチテーゼが強く現れている本書は、「漂泊」の旅により角幡氏自身が未知の土地への思考を再定義し、新たな“覚醒”をする。第二部『犬橇事始』は、そんな未知の土地により深く入り込むために角幡氏自身が橇を一から作り、犬たちを訓練し、第一部で入り込めなかった土地へと再び相対することになる。そんな本書を上梓した角幡氏に、極北の“土地”とのかかわり、犬たちとのことなど話を聞いた。(文・取材=すずきたけし)

写真=竹沢うるま

裸の大地とは

ー最新刊『犬橇事始』のお話の前に、第一部『狩りと漂泊』の冒頭についてお聞きしたいのですが、北海道の日高山脈に地図なしで登り、そこで山々が未知であることに角幡さんは改めて脅威を感じて山々を「裸の山」と表現していました。シリーズを「裸の大地」というタイトルにしたのもこの経験からだと思いますが、この「裸の大地」にはどのような意味が込められているのでしょうか。

角幡:僕らが今見てる世界というのは決して真実ではないのではないか、ということですね。この時代の、近代以降の現代の文化の中で生まれたことによってフォーマットされてしまった思考回路みたいなのがもともとあって、そのフィルターを通して見てる世界にすぎなくて、例えば効率化だとか何かを達成しなきゃいけないといった圧力として現れているような気がするんですよ。そういった思考回路以前の、そのままあるような世界がたぶんあって、それに入り込むことが日高の地図なし登山でできたような気がするんです。

  最初はすごく不快で、ずっと険しいゴルジュ(切り立った岩壁にはさまれた峡谷)が続いて、地図を持ってないからそれらがいつ終わるのか分からない状態だったんです。でも実はそれが真実の世界であって、普段の(地図をもった)山登りは地図という未来を予期できるツールで本当の世界を覆いかぶせて見えなくなっているんじゃないかと感じました。

  狩猟をやった時もそれに近い感覚で、狩りをすることによって自分が生きることができる、生かされているという、初めて土地の中に入り込むことによって見えてくる風景や境遇だったりするわけですよね。その風景に入り込むことができたらすごく生々しい風景や自然環境が、自分にとってすごく切実なものとして立ち上がってくる。それが日高では地図をもたず狩猟をすることで入り込むことができた。

  今見ている僕らの何か到達優先の風景とは切実さの点において全然違うんですよ。なので土地と自分がすごく深く関わり合っているときに見えてくる山だとか、見えてくる極地というのが「裸の大地」というタイトルの意味ですかね。

写真=竹沢うるま

思考や考え方で見えた「いい土地」、そして漂泊という旅

ーー『狩りと漂泊』ではその到達優先の旅のアンチテーゼとして“漂泊の旅”を示されていました。そのなかで角幡さんは、それまでの風景を漂泊によってご自身の中で一度裸の山にして、再び新しい景色と土地を見出して地図を作るという、新たな思考に辿り着いて“覚醒”したように感じました。このときの旅で「これだ」というような感覚はあったのでしょうか。

角幡:何回かあって、意識的にそうなりたいって思ってた結果だとは思うんですけど、『極夜行』(文春文庫)のときもあったし、日高のときもそうだったし、『狩りと漂泊』で言えばフンボルト氷河のアザラシの猟場ですよね。たくさんといっても、実際に行ったら遠くの黒い点みたいな感じなんだけど、「あそこにいる!あっちにもいる!」みたいな、それが僕にとっては「めちゃくちゃいるな!」って感じるんですよ。このアザラシが獲れたらもっと北に行けるわけじゃないですか。そういう、「めちゃくちゃいいとこだな!」っていう感覚がありましたね。

ーー本書でおっしゃられた「いい土地」のことですね。その「いい土地」は目標到達至上主義で目標に移動してるときは気が付かないですか。

 角幡:アザラシがいるのは気が付くかもしれないですよね。けどそれが自分にとって意味ある存在として立ち上がってくるかどうかっていうと、そうじゃない。「アザラシがいるな」で終わっちゃうかもしれない。その時は僕とその土地だとか、風景との間ですごく深い関わり合いが生じるかといったら生じないわけですよ。自分の思考的な態度っていうか、何を求めてるかっていうのが重要で、外の世界っていうのはただそこにあるだけじゃなくて、こっちが思考することによって向こうが反応して初めて意味ある存在として結晶化するわけじゃないですか。だから、その有機的な関連性の結果だと思うんです。

ーー思考とか考え方が変わったことで、見えるものが全く違うものになるということですね。

角幡:そうですね。『狩りと漂泊』ではすごくそういう風に自分を変えようとしてたっていうのはありますよね。漂泊登山っていうのを考え始めたのが極夜行の前ですから、たぶん2014年か15年ぐらいから考え始めたんですよ。『アグルーカの行方』(19世紀に北極探検中に消息を絶った英国のフランクリン隊の足跡を角幡氏が荻田氏と辿った探検記)を書いた時に荻田君と一緒に長い旅をしたんですけど、あの旅は僕にとってはすごく大きな意味があって、あれをやらなかったら全然違ったと思うんです。

  その時は本当に典型的な計画的な到達行動で、GPSを使って1日あたりのスケジュールを刻んでいくオーソドックスな今の冒険の方法なんですよ。それを経験した時にものすごく違和感があって、「すげえ距離歩いてすごい疲れたけどなんか深いところに全然入れなかったな」っていう感覚がすごく強かったんです。

  当時はGPSを使うことによって風景が見えなくなるっていう風に考えててその結果だと思ったんだけど、旅してる土地と自分がどうしても噛み合わない、距離ができてしまう。そこにいるんだけどただ表面を通過してるだけで、深いところに入っていけないわけですよ。その正体は何だったのかっていうのをこの今に至るまでの問題意識としてはすごくあって、『極夜行』では極夜っていう現象自体を未知のものとして考えた探検で、地理的な目標地点を目指さないことを模索した旅のひとつでしたけど、目的のために今を消化するのではなく、今の出来事に自分をまるごと晒したい、そういう風に自分の思考回路とか行動原理を変えることで何か見えてくるものがあるんじゃないか、その結果として行動原理を変えるしかない。それは到達じゃなく漂泊だ、と考え始めたと思います。漂泊の旅にすると自分と土地との調和感っていうか融合感が全然違いますよね。

写真=すずきたけし

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