第168回芥川賞はどの作品が受賞してもおかしくない力作揃い 候補5作品を徹底解説

芥川賞候補5作品を解説

安堂ホセ『ジャクソンひとり』

 ゼリーみたいにぐらつく足元で、世界地図はぐにゃぐにゃに揺れ、誰かの脚がその表面をかすめていった。水たまりに映った像のようにレモン色の線は崩れる。土の匂いがして、喉が渇いた。自分がどんな成分でできた誰なのか、どこからやって来て今どこにいるのかが、全てどうでもよくなりながら眠った。

安堂ホセ『ジャクソンひとり』(河出書房新社)

 第59回文芸賞を受けたばかりのデビュー作での芥川賞候補入り。

 「アフリカのどこかの国と日本のハーフ」だというジャクソンは、スポーツブランド会社専用のマッサージ店に勤務している。ある日、職場で「ゲイ」だと噂されるジャクソンが着ていた、もらい物のロンTにプリントされたQRコードを職場の人間が読み込むと、ジャクソンに似た男が過激な「プレイ」に興じる映像が流れた。ジャクソンは自分ではないと否定するも、会社の連中は認めようとしなかった。やがてジャクソンは、同じく謎の人物からロンTを贈られたという4人のブラックミックスと出会い、ともに犯人を特定するとともに、4人の見た目が(日本人にとっては)似ていることを利用し、互いに入れ替わり、人々の無理解を逆手に取った「復讐」を企む。

 「四人のジャクソンズ」は、入れ替わりにより「「当事者意識」のようなものが溶け」ていく意識を覚える。そうした感覚と合致するように、作品中盤からは主語の明記が避けられ、動作主や発話主の取りづらい場面が増えていき、読者として否応なく混乱していくのだが、無論、それもまたある種の「復讐」の一端として理解した。今回の候補作のなかではほとんど唯一、エンタメ的な要素をも含み込もうとしており、いちばんおもしろく読んだ作品だった。そう油断したところに、随所に挟み込まれる鋭利な社会批評が光っていて、曲者である。

鈴木涼美『グレイスレス』

 一つの規範に縛られないでほしい。何かが正しく何かが愚かに見えても、そんなものは無限に広がる世界の中で、偶然転がり込んだ感覚でしかありません。特に日本の人が気にする世間とか社会とか、それ自体がとても狭いのよ。

鈴木涼美『グレイスレス』(文藝春秋)

 前回の第167回芥川賞にも『ギフテッド』(2022年)で候補入りしていた著者が、今回も続けてノミネートされた。

 ポルノの撮影現場で働く女性たちにメイクする仕事をする「私」を主人公とする本作は、ひとまず、ポルノ業界(いわく「倫理の際」)のルールやマナーといった内幕を知る「お仕事小説」としても読める。だが、他方にそうした都心の喧騒を離れ、郊外で祖母と暮らす家の静謐さが対比される。二人の暮らす家は、澁澤龍彦の翻訳などで知られるフランスの小説家、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグを思わせる作家の小説中にあらわれる建物をもとにしているらしい。「私」を育て、いまは海外で暮らす奔放な母と、その母を育てた祖母の、母娘三代の関係性はとても魅力的で、多くの(とりわけ教育的な)金言に満ちている。

 ポルノの撮影現場という、ともすれば扇情的な舞台を取り扱いながら、本作はそうした世界を善悪の「規範」によっては肯定も否定もしない。例の建物にあらかじめ取りつけられていた十字架を取り外し、恩寵の外(「グレイスレス」な領野に)に出る、という象徴的な場面から始まる本作が見つめるのは、そうした二元論のあわい、いわば滲む「メイク」のような、日本家屋の「縁側」のような、「グレーゾン」である。一読して、他の候補作に比べて、細部の描写が充実しているという印象を受けた。不要とされかねない細部を蔑ろにしない態度は、主題と合致していて力強い。

 受賞予想は、完全に個人的な好みで、井戸川氏(と安堂氏)としておきます。

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