「マンガとゴシック」第10回:楠本まき『KISSxxxx』論 後篇——日常という名の「不思議の輪」
美のアジール——亀の甲羅と「かわいい」デカダンス
閑話休題。この日常系ゴスのユートピア世界に、突如として亀裂が入る瞬間が何度かある。それはマーガレット・コミックス(ワイド版)4巻冒頭で、カノンが見る夢にあらわれる。赤みがかった三日月のもと、何者かがカノンに以下のように語りかける。「キミたちは 今は お互いに自分が気持ちいいから一緒にいるけれど/いなければいないで それほどたいしたことじゃないんだ[中略]居心地いいだけの関係/単なるナルシシズムの変形」。そしてカノンは「どうして僕は かめのちゃんじゃないんだろう」と悩ましく独白する。
吟遊詩人でノマドであるカノンの父親に象徴されるように、家父長制的な「試練としての大人」が出てくることがない、美と若さのアジールである『KISSxxxx』の世界観に、作者自身の不安のあらわれとも取れるコメントが入ってくる。美しい関係だからこそ、崩壊が予感される。それは儚く、長続きするはずもないのだと。とはいえ、このマンガでは危機は夢のかたちで予感されるにとどまり、その先の世界が描かれることはない。
これはゴス美学に特有の夢想癖や現実逃避の典型ではあるが、だからこそ逆説的にそのアジールは社会を反映する(何に対して構築された「美の要塞」なのかという意味で)。楠本まき(1967年生まれ)とほぼ同世代のマンガ家の岡崎京子(1963年生まれ)が、あまりにも時代の鋭敏なアンテナであったがために『リバーズ・エッジ』『ヘルタースケルター』あたりで時代と刺し違えてしまったパンクスだったのとは異なり、楠本は自らの美意識とマイペースを守り、貫いたゴスである。それゆえに『KISSxxxx』は単なる時代風俗や若者のライフスタイルの描写を越えて、永遠に大人のいない美しい子供部屋の象徴たりえている。
ところで、『KISSxxxx』では「ぷるぷる」と「むよむよ」と名付けられた二匹の亀——硬い甲羅をゼリーに変容させるこのふにゃふにゃノンセンスなネーミングセンス!——がでてきて、終わらない日々が描かれる。となると、真っ先に連想されるのが押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』だろう。宇宙空間を漂う巨大な「亀」の背中にのっかった友引町で、文化祭前日が永久に繰り返され「終わらない」。原作者・高橋留美子のいわゆる「るーみっくわーるど」に対する強烈な批判とも見なせる本作は、成熟しない子供に対する大人側からのコメントでもある。
しかしながら、押井のようにトートロジー的で他愛もない日常をマッチョに批判するのでなく、むしろそこに尊さを、そこはかとないポエジーを、微妙な差異を伴って繰り返されるものの織り成すポリフォニーを、つまり「不思議の輪」を楠本は発見した。『KISSxxxx』で、ベーシストの蟹ちゃんが二匹の亀の甲羅をポスカでサイケデリックに塗り上げるシーンがあるが、これはユイスマンスのデカダン文学の傑作『さかしま』で、世捨人デ・ゼッサントが亀の甲羅を宝石でデコることに夢中になる姿を「かわいい」と捉えたごとき(?)感性ではないか。時間が発展せず滞留し、腐って甘い匂いを発することがデカダンス(この語は「腐る」を意味するディケイに由来する)なのだとしたら、楠本には(楠本がリスペクトする『ポーの一族』の萩尾望都と同様に)それを芳しいと思う世紀末人間の美的感性がある——これは押井守が『天使のたまご』で女性原理として認めつつも、同時に男性原理として受け入れがたく思っているフラジャイルな感性と思われる。
解体(ディスインテグレーション)と子宮(ユートピア)
デカダンといえば、3巻冒頭に食虫植物ウツボカズラに関する、奇妙な挿話がある。ウツボカズラになったかめのに、虫になったカノンが食べられたいという夢想を語る。しかし、かめのはカノンを食べたくないという。それに対し「じゃあ2人で虫になろう それで2人でウツボカズラに食べられるんだ」とカノンが言い、「うん それならいい」とかめのが応答する。
そして、どちらの台詞ともつかないまま、以下のように続く。「そしたら2人で溶けていくのがわかるね/ウツボカズラに吸収されてくのもわかるね/きっとすてきだよ」。同化した二人を表した巧みな表現だと思う。解体され同化していくこと、至福のニルヴァーナに至ることの愉楽。私はこの挿話を読み返すたびに、ニットスー・アベベが2010年にピッチフォークに寄せたキュアー『ディスインテグレーション(解体)』評を、不思議と思い出してしまう。『KISSxxxx』評とも読めるので、以下に一部訳出する。
「アルバムの魅力の大部分は居心地の良さ、ほとんど子宮の中にいるような感覚にある——大きくて、暖かくて、緩慢で、美とメロディーと楽しさにさえ満ちている。思うにその秘訣は、美しいにせよ恐ろしいにせよ崇高にせよ、あなたの周りにあるすべてに意味があるという感情のサウンドトラックとして『ディスインテグレーション』がいかにうまく機能しているかということに尽きる。これは大文字のRで始まるロマン派(Romantics)のためのアルバムであり、気鬱者のものではない。」
萩尾望都はウツボカズラの挿話を「死と腐敗のデカダンなイメージ」や「不安な死の匂い」と評しているが、おそらくそれは半分正解であるが、半分間違いでもある。その暗さは「死と腐敗」であると同時に、子宮的なものであり、安心感であり、同一化であり、居心地の良さなのだから。『KISSxxxx』はゴスと日常系、デカダンとほのぼの、という一見相容れない二つが出会ったことに意味がある。やはり、ゴスではなくハッピーゴスなのである。
そして、アベベの言うように「あなたの周りにあるすべてに意味があるという感情」さえ持っていれば、繰り返される日常は「不思議の輪」に変貌するはずである。その尊さを語ることが、このアジールのようなマンガの存在意義である。カノンとかめのは、実によく眠る。ときに安らかに、ときに死んだように。ほとんど眠っていると言っても過言ではない。しかし、その眠りのユートピアを野蛮にも襲撃する権利が、いったい誰にあるだろう? ここは「穏やかで、余計なものが無くて、たいせつなものが少しだけあって、それで豊かな世界」(萩尾望都)なのであり、外部の干渉を拒絶する美しいウロボロスの輪なのである。
『KISSxxxx』最大のサウンドトラックは、キュアーの『ディスインテグレーション』ではないか。このアルバムに収録された「ララバイ(子守唄)」という名の楽曲は、眠りこけるカノンとかめのに捧げられたものにさえ、私には思える。
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