【伊集院静さんが好きすぎて。】気鋭の放送作家澤井直人が語る「伊集院静さんと野球」

 私生活のすべてが伊集院静「脳」になってしまったという放送作家の澤井直人。彼がここまで伊集院静さんを愛すようになったのは、なぜなのか。伊集院静さんへの偏愛、日々の伊集院静的行動を今回もとことん綴るエッセイ。

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【独白】私生活のすべての思考は「伊集院静ならこの時どうする?」気鋭の放送作家・澤井直人がここまでハマった理由

【伊集院静さんが好きすぎて】気鋭の放送作家・澤井直人が綴る「食」の流儀

 伊集院静さんのことを知っていくと、“野球”というキーワードが出てくる。
今回は、伊集院さんから学んだ『野球の流儀』を書かせて頂く。

 私は、小学生の頃から合わせて、9年もの間、“野球”に取り組んできた。
学生時代に唯一、「やりきった!」と胸をはれるものかもしれない。小学生の頃は日夜野球三昧。滋賀県の大会でも優勝し、青春はまさに野球一色だった。

 そんな、伊集院静さんも、実は根っからの野球人ということを知る。

 その昔、美術大学に進学するつもりでいた伊集院さんは、義兄が読売ジャイアンツの野球選手(高橋明)だったご縁もあり、高校の夏休みを利用して東京に行った折、
あの長嶋茂雄さんに会うことになる。

 そして、ご本人から「野球をするのならセントポールに行きなさい」そう言われ、立教大学で野球をすることを決めた。志木にある野球部の寮に入り、朝から晩まで、寝る前までバットスイングをする大学時代を過ごした。

 結果的に、肘を壊したため野球部は途中で退部したものの、高校、大学を合わせて、本気で野球に取り組んでおられたのだ。

 作家生活をスタートさせてからも伊集院さんと野球との縁は繋がっていく。あの国民的ホームラン王、25歳も歳が離れている松井秀喜選手から対談の依頼が来たのだ。

 それ以降も、交遊は続いており松井さんを題材にした著書『ヒデキ君に教わったこと野球で学んだこと』も執筆されている。

 中学2年の時、友人の悪口を言った松井少年に父親がいさめて以来決して悪口を言ったことがないという松井氏。「悪口を言いたい時はないのかね?」と伊集院さんが尋ねた際、「山ほどあります」と答えたという。

 この時、「いい青年だな。芯があるんだな、軸があるんだな。」と思ったという。

 さらには、伊集院さんが直木賞を受賞された『受け月』も野球を題材に描いた作品なのだ。1992年(平成4年)上期、伊集院さんが42歳の頃だ。

伊集院静『受け月』(文藝春秋)

人生×野球における悲喜こもごもを味わえる「夕空晴れて」

 永年率いた社会人野球の名門チームからの引退を、自ら育てた後輩に告げられた老監督、
母と自分を捨てて家を出た父親との再会を躊躇(ためら)う男……。野球と関わる人生の哀愁が詰まった7編からなる短編小説だ。

 中でも特に好きな話がある。「夕空晴れて」という作品だ。

 あらすじは、亡くなった夫の好きだった野球を息子が始めたが、試合に出られず複雑な思いを抱く母親が描かれている。

 息子は楽しそうに野球の練習や試合に行くものだから、どんな野球をやっているのかと試合を見に行く。しかし、そこには試合には出られず、バットの片づけやグラウンドの石を拾ったりしていた。そんな息子を見て複雑な心境になる母親。煮え切った気持ちは冷めず、息子の野球チームの監督に会いに行く。そこで、この監督が夫の後輩であることを知るというストーリーだ。

 母親が監督に会いに行くシーン、監督は生前の父との思い出を話し出す。実は夫の後輩で、プロに行くことが夢だった。しかし、プロの夢はその後絶たれてしまったのだ。野球以外は何もできない人間だったから、次第と遊ぶようになって半分グレたような生活を送ってしまう。そんなとき、父(先輩)が訪ねてきた。

 『田舎へ帰ってまた野球をやろう!つまんない野球はもうやめろ、神様がこしらえた野球をやろうや!』と先輩に教えられ、一緒に草野球をする。その時間が何より楽しかった。

「もし先輩(父)と出会えてなかったらつまならい野球をした男で終わったことでしょう。」とそんな野球と出逢えてから、この街がえらく好きになったんです。

「つまらない野球」とは文字通り上を目指すためだけの野球のことで、「神様がこしらえた野球」は上手い、下手関係なくみんなが楽しめる野球のこと。

 勝つだけが野球ではない、負けても一緒に戦った喜びもあるのだ。そんな先輩(父)から「息子に野球を教えて欲しい」と頼まれたことを聞いて母親は涙する。

 この作品の後味は凄まじい。人生×野球における悲喜こもごもをしみじみと味わえる。
そして、心がスッと軽くなっている。

 この夏、甲子園でも胸にグッとくるシーンがあった。仙台育英の須江航監督の優勝インタビューで出た言葉だ。

「入学どころか、多分、おそらく中学校の卒業式もちゃんとできなくて。高校生活っていうのは、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とは全く違うんです。青春って、すごく密なので。でもそういうことは全部ダメだ、ダメだと言われて。活動してても、どこかでストップがかかって、どこかでいつも止まってしまうような苦しい中であきらめないでやってくれた。」

 そして監督は最後にこう添える。

「本当に、すべての高校生の努力のたまものが、ただただ、最後、僕たちがここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います。」

 決勝戦で好投を見せた斎藤蓉投手の優勝インタビューでも、3年間で今一番感謝したい人を尋ねられると「一番はスタンドにいる仲間です」とアルプススタンドで声援を送り続けてくれた部員にこう言葉をかけた。「皆のおかげで優勝できたよ、ありがとう!」

 部員たちの答える拍手と表情に、“野球の神髄”を見た気がする。「神様がこしらえた野球」がチームを団結、強くさせつかんだ優勝だった。

 新型コロナウイルスが猛威を振るった年、コロナの影響で高校野球・夏の甲子園大会は中止となってしまった。そこで伊集院さんは、母校・山口県立防府高等学校の野球部員を励ますため、直筆のサインボールに「自己実現」という言葉を記して贈ったという。この言葉に込められた想いとはどのようなものだったのか。高校球児はもちろん、多くの人々を勇気づけるものだった。

 『受け月』の最後のページを閉じたとき、自分が実際に観た野球の様々な情景が一気に蘇ってきた。

 小学生の頃…父が勤めていた高校が甲子園に出場することが決まった。その学校は京都の老舗高校。猛打のチームで少年の私は、テレビの前で…毎試合、毎試合、釘付けになった。
そんな僕を父は甲子園に連れて行ってくれた。選抜高校野球の準々決勝だった。試合はあの明徳義塾に12―5で勝利。生で見た熱気と、金属バットの音、スタンドで食べたカップラーメンの味。甲子園を出た帰り道、「野球をする」。そう心に決めた。

  家に帰ると母に「グローブを買って欲しい」と話した。クリスマスの朝、起きると枕元にグローブが置かれていた。そこから、そのグローブが擦り減るまで放課後の小学校でキャッチボールをした。

 野球をはじめて数年が経った引退の年。滋賀県大会の予選。これまでに見たこともないピッチャーに出逢う、

 彼は…小学生の時点で体も大きく、バッターボックスで見るボールの圧に“驚愕した”。腰を抜かした。「こういう人がプロに行くんだな。」 それまで“野球で食っていきたい!”と
かすかに思っていた自分の心が一瞬にしてかき消された。

 彼の名前は、“小熊凌祐” 滋賀の名門・近江高校へ進学し、甲子園にも出場。その後、中日ドラゴンズに進んだ。そして私は彼と出会った後、野球を辞めた。

 おとなになって久しぶりに訪れた、夏の高校野球の地方予選。バックネット裏に座って試合を観戦している私。プレイボールのサイレントともに、そこにいる人たちに色が付き始める。持参したノートに1球1球スコアをつけていくご老人。“久しぶりじゃないか”と再会し、抱擁しているスーツを着た30半ばの男たち。

 「みんな野球が大好きなんだな。」 その顔は皆、輝いていた。伊集院さんも大人の流儀の中で「野球をしていたお陰で就職もでき文学賞をとれた」と書かれている。

伊集院さんは、仙台の自宅から上京する際、乗車した電車の席を海側の窓辺に座るという。理由は…野球場を見るため。トンボでグランド整備している下級生が目に留まると『ガンバレよ』と胸の中でつぶやいてしまうそうだ。

  野球はわたしたちに、不思議な力を与えてくれる。

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