海賊王におれはなる! まるでワンピースな日本史上稀有の「海賊王」 藤原純友の波乱に満ちた人生航路

 実は藤原純友の出自には、大きく分けてふたつの見方がある。ひとつは、系図通りの藤原北家の貴族。だが、もうひとつは、伊予の豪族、越智氏の流れである高橋氏の出身ではないか、というもの。

 実際、昭和の大河ドラマ『風と雲と虹と』の原作

北方謙三『絶海にあらず』(中公文庫)

のひとつになった海音寺潮五郎の小説『海と風と虹と』(朝日新聞社)では、後者の純友=伊予出身説が採られている。純友は元々、海に生きる人たちの問題意識を共有していたから、後に海賊となった、という考えだ。

 これは非常にわかりやすい。生まれた地域の問題は肌で感じやすいもので、ならば、海賊とのつながりも深いだろう。

 でも、近年の研究では、純友はどうやら、本当に藤原北家の出自だったのでは、という見方が強い。

 ちなみに北方謙三が純友を描いた小説『絶海にあらず』(中公文庫)では、こちらの説が採られている。そして、この前提に立つと、やはり思ってしまう。

「都出身の貴族が、何が悲しくて海賊の首魁になる?」

 純友に関しての記録は少ないが、ある時期に伊予掾(いよのじょう)という官職に就いたことはわかっている。地方の国に置かれた四等官の守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)ひとつであり、伊予国の行政におけるナンバー3ということだ。近い時期に一族のひとりが伊予守になっているので、そのおこぼれかもしれない。

 どちらにしろ、都の貴族の視点で見ればたいした役職でなく、中央での出世はない身分。ただし、任地においてはトップ3だ。

 そして、このように地方に任じられた貴族たちの多くは、その任地で土着していった。都に帰っても食い扶持がないからだ。関東では、それが武士となった。

 純友も任期が終わっても伊予に留まった。つまり、馴染んだのだ。

 現在でも愛媛県北岸から眺める瀬戸内海は美しい。だが、彼が馴染んだのはその風光明媚さだけではないだろう。そこに生きる人たちとの交流があり、生活がある。現地で得た知己たちの悩みや苦しみさえも理解したのではないか?

「なあ、伊予掾(純友)、海は好きか?」

 瀬戸内を走る船団と、そこに沈む黄金の夕日を眺めながら、伊予の人たちにそんなことを聞かれる純友の姿が目に浮かぶ。

 いや、彼が伊予に任官した時期には、すでに瀬戸内の海賊活動は活発だった。航行する船を襲い、積み荷を奪うなどの行為があちこちで起こっていた。

 任地の問題なので、純友がこれと向き合ったのは容易に想像できる。彼は海のアウトローたちと、なぜ、そうなったかさえ共有したはずだ。

「伊予掾、がまんできないことがある」

 それさえも聞いていただろう。

 だから、少し後に海賊たちが大きな反乱を起こしたとき、朝廷は純友にその追捕を命じたようだ。結果、この時点での反乱は収まった。純友は海賊たちを説得したのだろう。

 でも、ここまでだった。939(天慶2)年、純友は配下の藤原文元が抱える備前の紛争に介入し、備前介だった藤原子高(ふじわらのさねたか)を襲撃。鼻と耳を削いだ。

 恐ろしい暴挙だが、これは中国王朝に伝わる刑罰のひとつにも見えるし、何らかの報復にも思える。とにかく、この時点で純友は海賊の首領となった。

 ちょうど、関東では平将門が朝廷への反旗を鮮明にしていた。都ではこちらの対応に追われ、純友には「従五位下」の官位を贈り、懐柔しようとしている。

 対する純友もこれを受け、落としどころを探した節がある。

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