『NARUTO』サスケ、白、カカシ、シカマルに自来也……年代で“推しキャラ”が変わる楽しさを考察
筆者が30代になると、気づけば「ナルトぉぉぉぉぉ」と心の中で叫び、ミナトやクシナ、自来也や綱手に感情移入するようになる。この頃になると、親子・師弟関係、次の世代へ託す想い……という視点で読んでいる自分がいた。例えば、ナルトの出生秘話(コミックス52~53巻)なんかは、拭いても拭いても涙が止まらなかった。筆者は子どもがいるわけでもないのに、まだ産まれたてのナルトをこの世に残していかなければならない、悔しさとつらさ。それと同時に大きくなるナルトを見てみたかったと、母としての願い。ナルトが未来を切り開いてくれると信じて託す、父と母の決断と愛情が詰まった八卦封印のシーンに、完全に世界に入り込んでいた。ここからが、ナルトの物語の本当のはじまりだと。
ナルトの師でもある自来也の戦死も、同じくらい目を泣きはらした。2~3巻に1回くらいのペースでむせび泣いている気がする(この記事を書くのに読み返したときも泣いた)。これも大人になった変化なのだろうか。約20年と作品を繰り返し読む中で、昔と変わらずに何度ここで勇気づけられただろう、何度ここで泣いただろうかというところもある。だが、人生経験を重ねるなかで、より微妙な表情の変化に気づいたり、言葉の意味や余白に気づいたり、筆者はさまざまなことを感じるようになったと思う。
この記事を読んでくれているみなさんも、同じように感じ方や捉え方、視点の変化を感じるだろうか。そうした作品はあるだろうか。何十年経った作品でも、大人になったことによる視点の変化も一緒に楽しみながら、ぜひ作品に触れてみてほしい。もしかしたら変わるものばかりでなく、変わらないものの大切さに気付くかもしれない。