『真田太平記』『真田丸』に続く傑作! 直木賞作家・今村翔吾の『幸村を討て』がスゴい

今村翔吾『幸村を討て』が傑作

 池波正太郎の『真田太平記』(新潮文庫/全12巻)を読んで歴史小説の面白さに目覚め、火坂雅志の『真田三代』(文春文庫)を熟読し、三谷幸喜脚本のNHK大河ドラマ『真田丸』は言わずもがな、つい先日も上田城を訪れ、さらに足を伸ばして別所温泉にある「真田幸村公 隠しの湯」=「石湯」に浸かってくる程度には「真田びいき」の筆者も、「なるほど、これは面白い!」と思わず快哉を叫んだ小説――それが、今村翔吾の直木賞受賞第一作『幸村を討て』(中央公論新社)だ。

 「幸村を討て!」とは、何やら不穏なタイトルではあるけれど、この言葉を誰がどのような状況で発するのか。それが本作のひとつ重要なポイントとなっている。というか、そもそも「幸村」とは、何者なのか。無論、徳川軍を二度にわたって撃退したことで知られる智将・真田昌幸の次男「真田信繁」のことではあるのだけれど、彼が「幸村」の名前で広く親しまれるようになったのは、死後60年近く経ってから――のちに創作された軍記物語や講談によってであるという(信繁が生前「幸村」の名前を用いたという確たる資料は存在しない)。「幸村」という名前には、誰のどんな思いが込められていたのだろうか。さらに言うならば、信繁は「大阪の陣」に至るまで、実は自らが指揮するような合戦は、ほぼ経験が無いのだった。その男が、「日ノ本一の兵(つわもの)」として、今日まで広く知られるようになった背景には、果たしてどんな理由があったのだろうか。しかも、自身の「諱」である「信繁」ではなく「幸村」という名前で。それが本作『幸村を討て』のテーマなのだ。

 舞台となるのは、もちろん「大阪の陣」――江戸に幕府を開くことによって、天下をほぼ手中に収めた徳川家康が、その「総仕上げ」として行った、豊臣家との戦いだ。全国の有力大名たちが、こぞって参加した「最後の大規模合戦」としても知られる「大阪の陣」。その前半戦である「冬の陣」において、大阪城の南方に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、徳川軍を撃退することで勇名を轟かせ、その後半戦である「夏の陣」においては、家康の本陣に突入し、すんでのところでその命を奪うところまでいった「日ノ本一の兵」――それが今日、我々の知る「真田幸村」の姿である。しかし――。

 本作は、7つの章によって成り立っている。それぞれの主人公は、徳川家康、織田有楽斎、南条元忠、後藤又兵衛、伊達政宗、毛利勝永、そして幸村の実兄でありながら徳川方についた真田信之だ。それぞれが、それぞれの「思惑」を胸に秘めながら臨んだ「大阪の陣」。その冒頭の章で家康は、予想外の苦戦を強いられる。決死の覚悟で突入してきた真田軍に、本陣を割られてしまうのだ。けれども、家康にとどめを刺すことなく、真田軍は突如撤退する。しかも、その後、郎党と共に幸村は自刃するのだった。なぜ彼は、家康の命を奪わなかったのか? 彼の本当の目的は何だったのか? 家康の疑念は尽きない。そして、すべての戦いが終わったのち、家康はその腹心である本多正信と共に、その「謎」を解明すべく、関係者たちの尋問をはじめ、徹底的な調査に乗り出すのだった。

 各章を異なる人物の視点で描きながら、彼らが体験した「大阪の陣」の内実を、多彩な角度によって描き出すこと。そして、それによって、虚実入り混じった「真田幸村」という男の真の姿を、次第に浮かび上がらせていくこと。その構成は、「賤ヶ岳の七本槍」として知られる武将たちそれぞれの物語から、彼らと旧知の仲である「石田三成」の姿を浮かび上がらせた今村の過去作『八本目の槍』と類似している。けれども、本作が秀逸なのは、それがある種の「ミステリ」として機能している点である。本作においては、大阪城に入城すると同時に「幸村」を名乗り始めたという真田信繁は、誰と共闘・共謀し、一体何を成し遂げようとしたのか。それは果たして成功したのか。そして、各章の登場人物たちが、それぞれの文脈の中で口にする「幸村を討て!」という言葉の真意とは。

 徳川方と内通しながら不本意にも豊臣方の総大将となってしまった織田有楽斎の悲哀、裏切り者として大阪城で処刑された南条元忠の無念、己の死に場所を探していた後藤又兵衛の気概、「遅れてきた覇者」である伊達政宗の秘めたる野望、密やかなる「思い」を胸に大阪城に馳せ参じた毛利勝永の純愛――ある意味、連作短編のようにして描き出される、それぞれの人物像と物語は、どれも非常に印象深いものとなっている。けれども、やはり圧巻なのは、その最終章である「真田の戦」だろう。

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