古典文学の登場人物はDQN? 芥川賞作家による身もふたもない世界文学案内がおもしろい
〈ギャツビーって誰?〉。
登場人物の名前や内容は何となく知っているけど読まないままだった、昔読んだけどよくわからなかった。本書『やりなおし世界文学』はそんな知識のあやふやな世界文学の名作を、2009年に「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞した人気作家・津村記久子が実際に読み感想を記録した、文学案内的エッセイ集である。
本書と同タイトルの連載で2013年頃から10年近くにわたり著者が読んできた92作(内3作は書き下ろし)は、純文学・ミステリー・SF・戯曲・児童文学・哲学などジャンルもさまざま。そこで一貫しているのが、普段の生活に根ざした読者にとっても世界文学を身近に感じられる作品解釈だ。
20世紀アメリカ文学の古典であるスコット・フィツジェラルド『華麗なるギャツビー』のことを〈ギャツビーって誰?〉と気になってはいたが、結局読まなかったという学生時代の著者。小説家となってからも、〈だって華麗とか言われたら、自然と自分には関係ないなと思ってしまうじゃないですか〉と距離を置いてきた。だが、〈もういいかげん、ギャツビーのことを知る潮時が来たように感じたのだった〉と、読み始めて気づく。〈この作品自体が、その「ギャツビーって誰?」ということを解き明かす過程になっている〉と。とにかくパーティーをしている人ではあるが、その本質は人間誰しもが思う「こう生きたい」を妥協せず貫いているところにあるギャツビー。彼の人となりを知ることで、避けていて悪かったという気持ちになる。
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』は、怖い話は怖い話でも〈怖いことを体験した人の気持ちの話〉である点に注目しつつ、物語の語り手の家庭教師が雇い主への「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)を一切禁止されていたことにブラックな職場環境をイメージして、友人の職場の話を聞いているような気分にもなる。郵便屋さんと不倫に関する話らしいとの情報を得たまま放置していたジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、読んでみると〈DQNの小説である〉ことが発覚。簡単に愛し合ったり離れたり、人を殺したりする80年以上前のアメリカのヤンキーの無軌道ぶりに戸惑いつつも、〈この不可解さは本当に、覚えのある他人の複雑さそのものだ〉と思い当たる。
小説家が文学作品を読むといっても、決して難解な話にはならない。〈うまい・アホ・ていねい、と要素をきっちり揃えてきた、おもしろいお話のお手本のような短編集である〉(フレドリック・ブラウン『スポンサーから一言』)なんてラベリングの妙や、〈もうこの絶妙なだめさ加減はやめられない止まらない。(略)片時も心から出て行かないだめさが加速する回転寿司のように流れてくる〉(フローベール『ボヴァリー夫人』)なんて庶民的すぎる表現で、面白い本を面白そうと読者にちゃんと思わせてくれる。一方で〈タイトルの荘厳さもあって、どんな大河なのか、どんなに壮大な家族の歴史の話なのか、とおののきながら読むのだが、次第にわきあがってくるのは、「知らんがな」という身もふたもない実感である〉(ウィリアム・フィークナー『響きと怒り』)と、名作といわれてようと思ったことを率直に記すところに信頼がおける。