冤罪事件が起こってしまう構造的問題とは? 作家・安東能明 × ジャーナリスト・清水潔 特別対談
冤罪事件を生み出す制度的、構造的な問題
――冤罪事件は今もなお起こり続けています。その根本の原因は、どこにあると思われますか?
安東:日本の刑事司法はとにかく100%の結果が求められるんですよね。犯人を捕まえられなければ0点、逮捕、起訴すれば絶対に有罪に持ち込まないといけないというのが、警察、検察の常識になってしまっている。制度的、構造的な問題だと思います。
清水:今のお話には、二つの軸があると思います。まずは自供について。「自供さえ取れれば有罪に持ち込める」という時代が長く続き、自供以外に証拠がなくても「話には信憑性がある」「土地勘があり、アリバイを証明できない」などと冤罪が繰り返されてきたんだろうと。捜査に関わる人たちは、こう考えています。「取り調べは戦いだし、表面的に話を聞いて、『証拠がないから逮捕できない』では刑事捜査はできない」と。その考え方にも一理ありますが、それが成り立つのは、あくまでも容疑者と犯人が一致している場合ですよね。もう一つの軸は、警察、検察の「絶対に失敗を認めない」という体質です。彼らは迷宮入りよりも、失敗のほうがはるかに怖いんですよ。そのため一度でも容疑者が自供すれば、何があってもそれを押し通そうとするのです。容疑者も厳しい取り調べを受けているうちに、「この人たちに何を言ってもわかってもらえない。ここはいったん認めてしまって、裁判所にちゃんと調べてもらえばいいだろう」と思ってしまうんですよね。
――犯行を認めるまで取り調べが終わらない、いわゆる人質司法の問題もありますね。
清水:本当に犯行に及んでいる真犯人ならば、刑罰が怖くてなかなか自供できない。けれど冤罪の被害者は、警察の厳しい取り調べからとにかく逃れたくて、その後の裁判所の調べに期待しその場は認めてしまうんです。しかし、裁判官の前で「私はやっていません」と叫んでも、「そうは言っても、あなたは去年、供述調書にサインし、拇印も押してるじゃないですか」となる。裁判官にとっては目の前いる人間が発する言葉より、供述調書という紙こそが事実なのです。この構造はじつに恐ろしいと思います。
安東:二俣事件の裁判でも、容疑者は「私はやってない」と申し出ましたが、まったく通らなかった。「裁判官は“拷問があったとしても、自供したのならそれが事実だろう”と思っていた節がある」と、弁護士の清瀬一郎も書いています。今現在も検察、警察、裁判所が一体となり、弱い立場の被告には何もできない状況が続いているんでしょうね。
清水:そうですね。私も若い頃は、警察、検察、裁判所などの司法と報道は同じ方向を見ていると思っていました。それは「真実」という方向です。しかし、実態はまったくそうではなかった。私自身は少しでも真実に近づきたい、知りたいという思いで取材に臨んでいましたが、警察や検察は、証明が難しい真実よりも、公判を維持できる“事実っぽさ”の方が必要なんです。その理由は、先ほど安東さんが仰った「100%の結果を求める」「起訴すれば100%有罪にしなければいけない」ということですよね。絶対にひっくり返されない事実っぽい物語を作り上げるからこそ、日本の刑事裁判の有罪率は99.9%なんですよ。有罪に持ち込めそうにない事件は、そもそも起訴しませんから。どれくらいの確率かはわかりませんが、その中に冤罪が紛れ込んでいる可能性はあるのです。
――『蚕の王』でも、検察の言い分を裁判官がそのまま認めてしまう場面が出てきますが、その構図は今も続いていると?
清水:判決文は、検察官が書いた起訴状などをもとにして書かれることがほとんどです。民事裁判の判決では“6対4”や“7対3”などと双方に過失や賠償金などが認められることがありますが、刑事裁判は100と0、白と黒しかない。また、もしも裁判官が無罪判決を言い渡せば、それまでの検察、警察の仕事を全否定することになるんです。そんな仕事、いち公務員である日本の裁判官にはできないですよ。
多くの日本人は「警察は自分たちを守ってくれる、いざとなったら助けてくれる」と頑なに信じている。そういう一面も確かにありますが、「あなたやあなたの大切な人が冤罪事件に巻き込まれることもあり得る」ということは知っておくべきだと思います。
安東:確かにそうですね。「袴田事件」の袴田巌さんが東京拘置所から48年ぶりに釈放されたのが、2013年。袴田さんは浜松市在住で、私も何度かお見掛けしたことがありますが、今も無罪は確定しておらず、再び収監される可能性がある。袴田事件に限らず、「冤罪ではないか」と思われる事件も続いていますし、検察、警察、裁判所の悪しき構造がそこかしこに残っているのは非常に残念です。
清水:袴田事件にしても、検察はいまだに「絶対に有罪だ」と言ってますからね。先ほども言ったように彼らは絶対に間違いを認めないし、認めてはいけない立場なのです。間違った判決によって死刑が執行されたら、国家が殺人を犯したことになりますから絶対に認められない。結局彼らは真実に気づいても言えないのです。だから我々が伝えるしかないと思っています。
――清水さんの『殺人犯はそこにいる』、安東さんの『蚕の王』を通して、冤罪事件について理解を深める読者も非常に多いと思います。テレビや新聞では報じられない真相に近づけるのは、ノンフィクション作品や小説なのかなと。
清水:そうだと思います。雑誌、書籍、もちろんインターネットでの報道も含めて、冤罪事件の怖さ、いつ巻き込まれるかわからないリスクを伝えていけたらなと。『蚕の王』のような小説は、一般の方に冤罪事件のことを理解してもらうためにきわめて大切だと思います。安東さんにはぜひ、今後もこういった作品を世に出していただけたら嬉しいです。
安東:わかりました。私も清水さんのお話を聞き、理解の深まりを感じました。今日はありがとうございました。