『明け方の若者たち』のトリミングされた“記憶”のエモさを探る 映画×原作小説レビュー
「フジロックの代わりに行く旅行」がなぜエモいのか
昨年末に封切られた映画版『明け方の若者たち』(監督:松本花奈)のストーリーは、基本的には細部に至るまで原作に忠実だった。けれど、「僕」と彼女が一緒にいた、もっとも輝いていた時間の描き方は小説版と大きく異なっている。
特筆すべきは、「僕」と彼女が出会って3年目を迎える年の7月、インドアな彼女によって「フジロックよりも楽しいことをしよう」と提案される旅行のシーン。小説では、宿に向かうドライブの過程で、「僕」がレンタカーの鍵をなくしてしまうというトラブルが起こる。車に残した荷物も取り出すことができなくなり、大雨のなか、長野県の山の麓で別の宿を急遽探すことになった「僕」と彼女は、それでもどこか楽しそうだ。結局確保できたのは近くのホテルのロイヤル・スイートで、フジロックの通し券をはるかに上回る金額を払う羽目になりながらも、ふたりは「絶対これ、フランツ見るより楽しいって」と笑い合う。豪奢な部屋のなかで、びしょびしょになった靴下をいちばん干しやすい場所はどこかと探しながら。
一方の映画版では、この1泊旅行は、なんの落ち度もない素敵な旅として描かれる。ふたりを乗せた車はスムーズに高速道路を走り、趣味のいいリゾートホテルまでたどり着く。海を見渡せるしずかな部屋のベッドに寝転んだ彼女は、「僕」の腕のなかで「夢見てるみたい。死んじゃいたいな」と不意に口走る。スクリーンを見ている観客は、このシーンでおそらく、ふたりの別れをはじめて明確に予感するはずだ。彼女のいない現在/いた過去の記憶が常にゆるやかな糸で結ばれ、あくまで“いま”の延長線上のできごととして当時を描いている小説版と比べて、映画版で描かれる彼女にまつわる記憶は、とにかく走馬灯的なのだ。そんなにずっと楽しそうで大丈夫? ほんとうにそれは現実? と勝手にこちらがハラハラしてしまうくらい、張り詰めた美しさが60分間つづく。
ベッドシーンの終わり際、「僕」は「好きだよ」とつぶやく。その言葉を言うとき、北村匠海演じる「僕」の表情はあまりに苦しそうだ。「うん」という彼女の返事に、私たちはふたりの絶頂期のほんの一部だけをトリミングして見せられているのだと確信する。同時に、どれだけ鼻を利かせても感じとれなかった別れの匂いは最初からずっと辺りを漂っていたのだと気づかされ、否応なしにエモい気持ちにさせられてしまう。
特別な記憶には文脈がない
ある秘密が明らかになり、彼女が「僕」のもとを去っても、物語は「僕」やその周囲の若者たちに焦点を合わせ直してつづいていく。そこからストーリーの半分近くが「僕」の回復や成長に充てられていくことを鑑みるとこの感想は野暮だなと自分でも思うのだけれど、小説でも映画でも、個人的にもっとも心に刺さったのはあの旅行のシーンだった。ロイヤル・スイートで靴下干し場を探すことがフジロックの楽しさを簡単に凌駕してしまうこと。恋人の腕のなかで「死んじゃいたいな」と思うこと。特別な記憶に文脈や背景は存在せず、いつでもただシーンだけがある。それらのシーンが自分自身の過去の記憶にぱっと接続して、小説を読みながら/映画を見ながら、(恥ずかしいけれど)ぼろぼろと泣いてしまった。
いつだったか、恋人と小劇場にバンドのライブを観にいって、入り口の回転扉にふたり同時に入ってしまい、危ないからひとりずつで、とスタッフに注意されたことがあった。うまく説明できないけれど、そのとき、ああこれはたぶん私たちがいなくなっても残るやつだ、と思って涙が出てきたのを覚えている。扉の内側に閉じ込められた空気圧で耳が詰まり、あっ、と発した声がくぐもり、それが笑い声に変わった瞬間。半径1メートルにくり抜かれたあの時空間は、当時の自分にとって誇張ではなく全世界だった。恋愛の視野は途方もなく狭い。狭くて暗くて苦しいのに、ここではない別の世界がたとえ数歩先にあったとしても、そこに足を踏み出したくないと感じてしまう。『明け方の若者たち』で描かれるふたりのシーンの連続は、久しぶりにそんな気持ちを思い出させてくれた。
■書誌情報
『明け方の若者たち』(2020年に単行本、2021年に幻冬舎文庫)
著者:カツセマサヒコ
出版社:幻冬舎
■公開情報
『明け方の若者たち』
2021年12月31日(金)全国公開
出演:北村匠海 黒島結菜 井上祐貴
監督:松本花奈
脚本:小寺和久
主題歌:マカロニえんぴつ「ハッピーエンドへの期待は」(TOY'S FACTORY)
配給:パルコ
コピーライト:(C)カツセマサヒコ・幻冬舎/「明け方の若者たち」製作委員会