原作・劉慈欣、翻訳・池澤春菜、絵・西村ツチカによる物語絵本 『火守』が感じさせる愛おしさ
『三体』が世界的な人気作となり、Netflixなどで実写映像化が進められている中国のSF作家・劉慈欣。その唯一の童話作品を声優の池澤春菜が翻訳し、西村ツチカが絵を付けた『火守』(KADOKAWA)が登場した。11月刊行の『円 劉慈欣短編集』(早川書房)や『三体』のような、科学や技術の進歩によって変化する未来のビジョンを見せる作品群とは違った、幻想的で優しさに溢れた物語だ。
『ケロロ軍曹』の西澤桃華役や、『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』の星馬豪役で知られる声優の池澤春菜に、書評家やエッセイストといった肩書きがついて10年ほどが経つ。ここに2021年春、ウィリアム・ブレイクの詩集『無垢の歌』を翻訳出版して、翻訳家の肩書きが加わった。2作目の訳書が、華文SFのトップリーダーによる童話となったのは、2020年秋から日本SF作家クラブの会長を務める池澤らしいセレクトだ。
『火守』は、サシャという男の子が東の果てにある孤島を訪れて、石炭を掘り続ける老人に頼み事をする場面から幕を開ける。病気がちなヒオリという女の子を助けたいというサシャの願いを、かなえる方法を老人は知っているらしい。老人は条件として、もうすぐ死んでしまう自分の代わりに島である仕事をする必要があると告げ、男の子は了解する。自分の身より最愛の人の幸せを願う気持ちに胸を打たれる。
そして始まる女の子を救う方法が実に幻想的だ。『三体』で科学にのっとった宇宙や未来の描写をしっかりと行った劉慈欣が、高い山に登るような感覚で月に行く、非現実的だが夢のある設定を繰り出してくる。たどり着いたというより、よじ登ったと言えそうな月でサシャが火守と星々の海を進む風景は、ピクサーの短編アニメーション『月と少年』にも似た雰囲気。子供向けのアニメーションにでもして欲しいと思える。
ブレイクは英語からの翻訳だったが、『火守』は中国語が原作で、そちらの言語にも通じているのかと池澤の多才ぶりに感心できる。あとがきには、簡体字で表記される人名をサシャやヒオリと訳した理由が書かれてあって、世界観を損なわないよう注意しながら日本語に置き換えていることがわかる。直訳すれば済むものではない翻訳という仕事の面白さが感じられる1冊だ。
大森望責任編集によるSFアンソロジー『NOVA 2021年夏号』では、SF設定で知られる堺三保の映画『オービタル・クリスマス』のノベライズを発表して創作にも進出。SFファンが投票で選ぶ第52回星雲賞の日本短編部門を受賞した。いずれは完全オリジナルの小説も書いて来そうで、2022年も池澤春菜の八面六臂ぶりから目が離せそうもない。
『火守』では、愛おしさを感じさせるファンタスティックな物語を紡いだ劉慈欣だが、大森望、泊功、齊藤正高の翻訳で『円 劉慈欣短編集』(早川書房)に収録された数々の短編では、科学技術と空想が交わったところに生まれる、驚きの可能性といったSFならではのビジョンをストレートに投げつけてきて、脳天を何度もぶっ叩かれる気分になる。
冒頭の『鯨歌』からしてすさまじい。『火守』にも鯨が登場して海の王様といった偉容を見せるが、『鯨歌』の鯨は『ピノッキオの冒険』のような立場で、人間のある企みに荷担する。ニュートリノ探知機が普及した世界では、麻薬のような物質も遠くからキャッチできるようになっていて、ギャングがアメリカにヘロインを密輸しようとしても、完璧なまでに阻止されていた。
そこで“運び屋”として鯨を利用しようというところから始まって、見事に成功した先に意外な方向から破綻がもたらされる展開が、科学を悪用することへの説教であり、自然を弄ぶことへの警句を感じさせる。続く『地火』でも、採掘が面倒な石炭を効率的に利用できる技術が、もくろみを外れて地上を地獄絵図に変える展開によって、科学万能の考え方をいったんは否定する。もっとも、結末の部分では少し違った評価も添えられているところに、科学の両義性を伝えたいといった気持ちもうかがえる。
温暖化によって潮位が上がって水没しつつある未来の上海に暮らす自分から、世界を救う方法を聞かされその通りにしようと決断した途端、別の未来の自分から電話がかかって来て、世界はとんでもないことになったと聞かされる『月の光』も、科学が決して万能とは言えないことを訴えてくる短編だ。だったらどうすれば良いのかと言うと、そこは教えてくれないだけに自分で考えるしかない。