『鬼滅の刃』我妻善逸はなぜ“桃”を投げつけられた? 「鬼」と「桃」の関係性から考察
※本稿には、『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)の内容について触れている箇所がございます。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)
いささか唐突ではあるが、『鬼滅の刃』と“桃”の話をしたい。より具体的に言えば、なぜ、我妻善逸の修行の場には、桃の林があったのか――について考えてみたい。
吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』は、宿敵・鬼舞辻無惨によって鬼にされた妹を人間に戻すため、政府非公認の鬼狩りの組織「鬼殺隊」の剣士となって戦う竈門炭治郎の成長を描いた物語だが、その炭治郎の親友のひとりが、前述の我妻善逸である。
我妻善逸は、天涯孤独の臆病な少年であったが、ある時、鬼殺隊の元「柱」である桑島慈悟郎に窮地を救われ、「雷の呼吸」の修行を半ば強制的にさせられることになる。結局、彼が習得することができたのは、雷の呼吸の6つある「型」のうちの1つのみであったが、鬼殺隊の入隊試験には合格、同期の炭治郎や嘴平伊之助らとともに、過酷な鬼狩りの任務をこなしていくことで、やがて剣士として、人間として、大きく成長していく。
ちなみに『鬼滅の刃』の物語が進行していく過程で、この善逸の修行時代の回想が時おり挿入されるのだが、屋外の場面で決まって描かれているのが、くだんの“桃”なのである。たとえば、第33話の扉絵には、桃の木の下で桑島に修行をつけられている(叱られている?)善逸の姿が描かれているし、第34話では、苛立ったある兄弟子(後述する)から、善逸は桃の実を投げつけられるのだ。
果たして、こうした場面で繰り返し描かれている“桃”に意味はあるのか、ないのか。もちろん、「ある」と思っているから、このような原稿を書いているわけだが、「なぜ桃なのか」を説明するには、ひとまず神話や昔話に目を向けていただくのがいいかもしれない。
鬼を祓うのは藤の花ではなく桃?
まず、多くの神話、昔話、伝説などで、「桃が鬼を祓う」という描写が出てくるのをご存じだろうか。その最も有名な例は、桃から生まれた“小さ子”が鬼を退治する『桃太郎』だろうが、その種の話のルーツを辿れば、おそらく『日本書紀』(や『古事記』)に行き着くことだろう。
たとえば、『日本書紀』神代上 第五段に、次のような記述がある。
(引用者註・黄泉の国の闇の中で、イザナキノミコトが火を灯してみると)時に伊奘冉尊、張満れ太高へり。上に八色の雷公有り。伊奘諾尊、驚きて走げ還りたまふ。是の時に、雷等皆起ちて追ひ来る。時に、道の辺に大きなる桃の樹有り。故、伊奘諾尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて、雷に擲げしかば、雷等、皆退走きぬ。此桃を用て鬼を避く縁なり。
要するに、黄泉の国で、イザナキノミコトが雷たちに襲われた際、桃の実を投げて退けたことが、「桃を使って鬼を祓う由縁である」と書かれているわけだが、海の向こうの中国でも、桃が悪鬼を祓うという観念が、『山海経』などで書かれている。また、かの地では、古(いにしえ)より桃は仙人が好む不老不死(不老長寿)の食べ物であるとされており、『西遊記』では、孫悟空が桃園の管理を任される場面も描かれている。
その他、悪鬼(厄災)を祓うための「追儺の儀式」(節分の儀式のルーツとされる)では、桃の木で作った弓が用いられていたという。
つまり、桃の実や木に鬼を退ける力(魔を祓う呪力)があるという観念は、日本人や中国人にとっては、それほど突飛なものでもなく、むしろ、(昔話や伝説に馴染んでいれば馴染んでいるほど)自然に受け入れやすい考えだと言ってもいいだろう。
だからこそ、吾峠呼世晴は、鬼を倒すための技を磨く修行の場(さらに言えば、人間の限界を超えようとしている者たちが暮らす“異郷”)の景色に、桃の木を印象的に描き込んだのだと私は思う。むろん、単に、絵的に桃の実の形がおもしろいから描きたかった、ということもあるかもしれない。だが、作品を隅々まで読み込めば、吾峠が様々な資料に取材しているのは明らかであり、となればやはり、善逸の修行の場の描写には、昔話などで伝えられている桃が持つ“破邪の力”が反映されていると考えたほうが自然だろう。
※再度注意。以下、「善逸の兄弟子」についてのネタバレあり。