葛西純がプロレスTシャツ界でもカリスマな理由とは? 伝説のTシャツデザイナー・植地毅インタビュー
自伝『CRAZY MONKEY』(小社刊/サイン本はこちら)が絶賛発売中、そして本邦初のデスマッチドキュメント映画『狂猿』が公開中と、20年以上のキャリアのなかでも過去最大級の注目を集めているプロレスラー葛西純。
デスマッチのカリスマとしてリングで暴れまわる一方で、葛西純オリジナルTシャツやグッズはプロレス界でもトップクラスのセンスを誇り、自ら手がけるアパレルブランド『クレイジーファクトリー』から放たれるアイテムの数々は、販売即売り切れ続出の人気ぶりとなっている。
そんな葛西純Tシャツの礎を築いたのが、デザイナーの植地毅。伝説のインディーズ団体「W★ING」でプロレスTシャツに参入して革命を起こし、その後はCZWや大日本プロレス、そして葛西純のTシャツデザインを手がけ、その独特のセンスと意匠で多くのフォロワーを生み出した“流浪のTシャツ作家”だ。
そんな植地氏にインタビューを行った。当時の記憶を思い起こしながら、数奇な巡り合わせを検証する。(大谷弦)
あの頃、プロレスファンはTシャツを買う文化がほぼなかった
ーー葛西純Tシャツといえば植地さん、ということで、改めて植地さんとプロレスTシャツの関わりについて聞いてみようと思いまして……。
植地:プロレスTシャツについては、過去に何度かインタビューを受けたことがあるけど、ちゃんと話してないことも多いので、いい機会だから、なんでも聞いてくださいよ。
ーーそもそもW★INGに関わることになったのはどういう経緯だったんですか?
植地:92年の話だから、もう30年前だね。俺は当時パンクロック系のアパレルやグッズを売るショップで働いていたんですよ。店ではバンドのTシャツは基本的に輸入モノ中心に販売していたんだけど、関税で価格が高くなっちゃうとか色々な理由で、社長がシルクスクリーンTシャツのプリントマシンを買った。それで「せっかく自社でTシャツ作れるようになったんだから、ウエチお前なんか仕事を取ってこいよ」って特命が下ってね。そんな営業なんてしたことないよ、と思い悩みながらコンビニで週刊プロレスを立ち読みしてたら、フレディ・クルーガーとかレザーフェイスが暴れまわっていて、インディープロレスシーンがヤバい事態になってることを知ったんですよ。
ーーW★INGが投入したホラーキャラクター路線の頃ですね。
植地:プロレスはずっと好きだったし、W★INGの存在はもちろん知ってたけど、当時のインディーズ団体の細かい動きまでは追えてなかったから大変な衝撃を受けた。これはTシャツの素材としてバッチリなんじゃないかと思って、さっそく社長に企画を出してOKをもらい、その週プロに載ってた“各団体連絡先”でW★INGの電話番号を調べて連絡したら、大宝さんというリングアナと広報をやっていた方が電話に出てくれて、W★INGのTシャツを作りたいという主旨を説明したら、しばらく絶句しつつ「……正気ですか?」って言われた。この時のことは昨日のことのようによく覚えてる(笑)。
ーーまさかそんなことを考える人がいるとは、ぐらいのレベルだったんですね(笑)。
植地:まあ、外部のデザイナーが団体のマーチャンダイズを申し出るってのは、当時はまったく前例のない話だからね。それで困惑する大宝さんにアポを取って会いにいきまして、Tシャツを作っていいですよ、ということになった。それでレスラーの写真素材を借りて、それを元にデザインして、シルクスクリーンの版を作ってTシャツにプリントして、納品して、結局興行で売り子までやるようになった。
ーーまさにD.I.Y.! ほぼ一人ですべてをこなしてたんですね。
植地:そうそう。まぁ、売り子までやるようになった理由は後で説明するけど、止むに止まれぬ事情があってね。とりあえず企画が無事にまとまったところで、最初に仕上げたのが『WE ARE THE LOW!』のデザインでした。
ーーニュー・ジェイソン(トレイシー・スマザーズ)、悪徳マネージャーのビクター・キニョネス、レザーフェイスの3人が揃い踏みのビジュアルが強烈で、それまでのプロレスTシャツとはまったくセンスが違いました。デスメタルやパンク・ハードコアシーンのテイストをプロレスに直輸入したというか、密輸したというか……(笑)。これは会場でも売れたんじゃないですか。
植地:それがぜんぜん売れなかった(笑)。あの頃のプロレスファンはTシャツを買う文化があまりなくてね。Tシャツ自体も品質もデザインもイマイチなのが多かったからしょうがないけど、お客さん側の意識も今とは全然感覚違ったし、そもそもマーチャンダイズグッズ自体が少なかったよね。大体パンフとポスターと団体ロゴのTシャツが少々。他に売るものがないからキニョネスの葉巻とか売ってたなあ。プエルトルコ直輸入のVHSビデオテープも売ってて高かったのでスルーしてたけど、いま思うとカルロス・コロンのレアな試合とか収録されてて買っておけば良かったなあ(遠い目)。それはともかく、当時の会場では俺が売り子をしてると知ったバンド仲間とかハードコア系の友達が「こんなとこで何やってんの?」って感じで遊びに来てくれて、最初それでポチポチ売れてたくらい。さみしいもんでしたよ。
ーーそれがいまやどのTシャツも伝説的ですからね。ミスター・ポーゴのガンプラモデル、邪道外道の「FUCK YOU」とか、それにヘッド・ハンターズ、ジェイソン・ザ・テリブル……。
植地:全部で12種類作ったかな。選手が移籍したり招聘されなくなったりしてボツになったのもあるから記憶は正確じゃないけど、一番売れたのが横浜文体の『BEST CHAMP1993』のデザイン。このあたりからW★INGにお客さんにもTシャツのデザインが周知されて、盛り上がってきた。小田原のレザー・フェイスVS松永光弘の釘板デスマッチのときも、お客さん大入りでTシャツも売れたのはよく覚えてる。俺は関東圏だったら基本的に現地会場まで売り子に行ってたんだけど、その理由は悲惨の極みでね。普段は店の仕事もあるから、地方興行に関してはTシャツだけ納品して、地方から戻ってきてから精算するんだけど、いつも在庫の残数と売上金が合わない(怒)。しかもその売上金も全然支払われない(怒)。それで自分が会場に乗り込んで、直接売り子しながら売上金を回収するという手段に出るしかなかった。これは本当に大変だった。いまだに腹立つし、思い出したくもないトラウマですよ。
ーーさすがイバラギング。おカネに関してはどこまでもルーズだったんですね。
植地:もちろん会場売りだけだとキツいんで、プロレスショップにも営業をかけてちょっとずつ置いてもらえるようになったんだよね。渋谷の『レッスル』とか、水道橋の『チャンピオン』とか。まあ、委託(販売)だし少量だったんで大した儲けにはならなかったけど、会場まで行けなかったファンにもこれで届くようになったのは良かったかな。
ーープロレスショップルートでも買えたんですね。いまや中古でもプレミア価格で出回ってます。
植地:W★INGTシャツは団体崩壊後の90年代中盤から、浅草キッドの2人がテレビに出るときに愛用してくれてカルト人気を得た。それをきっかけに再販しないのかって聞かれるようになったんだけど、再販が不可能な事情もあったんですよ。売上もまともに回収できなかったせいで予算が全然無かったから、200枚刷ったらシルクスクリーンの版を潰してたんだよ。潰した版型に新しいシルクを貼って次のTシャツを作るってやり方で回していた。あとでこんな人気が出るなんて思わなかったからねえ。後にWWSで再販されるポーゴさんのTシャツも、ポーゴさん自ら未着用のTシャツを持ち出して版を作り直したって聞いてる。ちなみに、その時にポーゴさんから「再使用するからギャラを払う」って連絡があったんだけど、ギャラいらないからその代わりなにか案件があった時に協力してほしいですって伝えた。それが後のANTiSEENのCDジャケデザインにつながる。
ーー原盤をリセットして使い回す必要があったんですね。昔のテレビ局がビデオテープが貴重で、潰して上書きしてたからアーカイブが残ってないみたいな感じですね。
植地:そうそう。だから、W★INGTシャツは枚数も総数はそんなに出てないんだけど、団体崩壊後にコピーされたブートTシャツが大量に出回ってる。いまだにW★INGTシャツ持ってますって声をかけてくれる人がいるんだけど、現物を見せてもらうとだいたいブート。ボディがプエルトリコ製で、それを本物だと思ってる人もいるんだけど、俺が作ってたのはぜんぶボディのメーカー(Haines社製)が決まっていたからすぐわかる。プエルトリコ製のやつはIWAジャパン時代か、FMW内のW★ING同盟時代にビクター・キニョネスが作ったブートだね。プリントの質が荒いだけでなく、袖のW★INGロゴプリントがひと回り小さいとか、見分けるポイントはタグ以外にもあります。
ーーキャピタルプロモーション製(笑)。それはそれで欲しいかも。
植地:この仕事は最後までけっこうストレスだったし、同時期に俺も体調を崩してしまって、会社も辞めてしばらく休んでたんだよ。
ーー植地さんはそれからフリーのデザイナー、ライターとして活躍していくことになります。
植地:大谷くんと知り合ったのもそれくらいだよね。『マンガ地獄変』が96年だから。
ーーもう25年前になるんですね……。それで2000年ごろに、CZWのTシャツでとつぜんプロレスアパレルに復帰したのはなぜだったんですか?
植地:それは大谷くんが、大日本に来ているCZWがヤバいから観に行こうって誘ってくれたんだよ。一緒にクルマで古本買いに行った時、大谷くんが会場で買ったっていうCZWのテーマソングが1曲だけ入ったカセットテープをエンドレスで聞きながら(笑)。
ーーあのテープ、まだ家にありますよ!植地:もちろん俺もまだ持ってるよ!まあ、実はその前に2000年頃に後楽園ホールでW★ING復活興行があって、たしか第4次の『真正W★ING』だったかな? そこでTシャツのデザイン頼まれてるから、正確な復帰はそこからだね。デザインはW★INGのロゴが長袖にプリントされた黒のロンTね。結構な数を作ったから今でもわりと手に入りやすいんじゃないかな。その流れから、CZWを教えてもらって秋葉原のファイヤーデスマッチを観に行って、芝刈り機や蛍光灯を目の当たりにして、ワイフビーターとかマッドマン・ポンドとかヤバい! バカ外人やばい! そして葛西純すげえ! これはTシャツを作りたいっていう衝動が久々に起きてね。それでまた週プロで連絡先調べて、大日本プロレスのグッズを作ってる四つ葉工芸に電話したんだよ。
ーーこの時も植地さんが自ら売り込んだんですね。
植地:そうそう。こっちから動かないと何も始まらんからね。そんで大日本の佐藤さんという広報の女性が対応してくれて。
ーー佐藤さんは、後にアブドーラ小林選手と結婚される方ですね。
植地:そうです。佐藤さんはW★ING Tシャツのことを知っててくれたんで、非常に話が早かった。この時はデザイナーとしてのロイヤリティ契約みたいな形にして、それから大日とCZWのTシャツを作っていった。
ーーザンディグ、ワイフビーター、マッドマン・ポンド……。どれも凶悪なデザインで最高でしたね。ジャスティス・ペインとワイフビーターH8club(ヘイトクラブ)とかもヤバかった。
植地:H8はロンTだったね。あとは有刺鉄線バット持った松永光弘選手や山川選手、小鹿社長もデザインした。
ーーそしてついに葛西純Tシャツを手がけることになるんですね。
植地:キッカケは、ロフトプラスワンで葛西純イベントがあって。その時に会場で売るTシャツを作ろうということになったんだよ。
ーーそのイベント、僕も行きましたよ。調べてみると、2001年11月11日ですね。葛西純の肩書が「CZWUSA 新ボス」となってますから、ザンディグを裏切って抗争を開始したころだと思います。当時のリリースには「当日限定(50枚)葛西純Tシャツ販売もあります」と書いてあります。
植地:カクタス・ジャックをオマージュした『WANTED』Tシャツを作ったんだよね。でもこのイベントのあとくらいに大日本プロレスからCZWも撤退してしまって、葛西選手も大日本プロレスを辞めるみたいな流れになって、俺もフェイドアウトしていったという感じ。
ーーまたプロレス界とは距離を置くんですね。
植地:この時くらいからゲームにどっぷりハマっていって、そっち系の仕事が増えていってしまった。
ーー植地さんの家でよく朝まで『鉄拳』とか、『モータルコンバット』をやってましたよね……。それで当時の洋ゲーを解説した『超クソゲーInternational バトルゲーム大全』という本を出したのが02年。それから毎年、E3の開催時期になると一緒にロサンゼルスに行くようになって……。
植地:ロスでも毎日オモチャとDVDとゲームを買いまわって、CZWとかバックヤードレスリングのビデオを集めたりしてたよね。それで、俺もゲーム業界でいろいろな仕事をしてたんだけど、その頃に知り合った某有名ゲームパブリッシャーの広報担当の女性が「私、大日本プロレスで働いてたことがあるんです」という話になって。「へぇ、俺もTシャツ作ってたよ」「もちろん知ってますよ!」みたいなやりとりがあったのが2009年くらいかな。
ーーその女性は、後に沼澤邪鬼選手とご結婚される方ですよね。
植地:そうなのよ。その女性から、元同僚でアブ小の妻の佐藤さん、それから葛西選手に話が繋がって、久しぶりに会おうということになったんだよ。それで集まって渋谷でしゃぶしゃぶを食べてたら、葛西選手が「伊東竜司と戦ってプロレス大賞とった」って話を切り出してきて、俺は申し訳ないことにしばらくプロレス観てなかったから、そのニュース全然知らなくて「ええ!マジで?」って超驚いた。そんで、大賞とった記念にTシャツを作りたい、とその場で依頼されたんですよ。どんなデザインが希望か?って聞いたら、葛西選手の返答がふるってて「100メートル先から見ても、葛西純のTシャツとわかるようなデザイン」と(笑)。さすがのオーダーだよね。抽象的すぎるけど(笑)、その意は汲み取れたので早速デザインしたんです。もちろん伊東竜二との試合もすぐにサムライTVの録画を取り寄せて、その映像を観ながら仕事した。
ーーそれが、リアルな猿のビジュアルをあしらった通称『狂猿』Tシャツになるんですね。バックには葛西さん本人の顔と名場面が散りばめられてる。植地:そのTシャツを売る時に、新しいフェーズだなと思ったのが、葛西選手による、自分で製作費を出してTシャツを作って、自分で売るという物販のスタイル。団体じゃなく、個人で持ち込みで物販やるというのは、それまでのプロレス界ではあまり前例がなかった。外人レスラーが持ち込みで物販やってることはあったけど、日本人選手は団体仕切りになってる場合が多いから、ほとんど聞かないケースだと思ったね。