“障害”はエンターテインメントに昇華できるのか? 丸山正樹『刑事何森』の挑戦
もう一度、「あとがき」に戻ろう。著者はサラリと打ち明けている。「自身と愛息のことを克明に描いた打海さんに倣って身近なことに着想を得るとしたら、頚髄損傷という重い障害を抱える家人のことしかなかった」。丸山氏自身に、車椅子の家族がいるのだ。
日本には「私小説」の伝統があり、不謹慎な表現をすればそこでは「病気」は欠かせないアイテムであり続けた。本作および「デフ・ヴォイス」シリーズを読み、私は考えてしまう。「病気」と「障害」はどう違うのか。
「病気」とは、いつかはそうではなくなると希望したい仮の状態のことではないか。長い闘病であろうとそれは過渡期であり、いつかは解消したいネガティブな時間だ。「障害」には生まれつきのものと、事故などで後天的になるものとある。治療によって「障害」が無くなることもあるだろうが、多くは固定的なものだと考えられる。「病気」が過渡期であり、ある一つの状態であるなら、「障害」は不動の常態であり、属性に近いものだろう。
無知なまま恥も顧みず私はこう考えたい。「病気」が「異常」だとすれば、「障害」は「普通」なのだと。むろん、「障害」ゆえに就けない職業はあるだろうし、外出がままならない、常に他人のサポートが必要、などなど、その苦労を、健常者と言われる側が勝手に心配することはある。しかし、どんな人でもできる仕事は限られ、今は新型コロナウイルスで外出もままならず、誰だって1人で生きていくことはできない。
「病気」が「私小説」と親和的だとして、私は、丸山氏が「障害」の現場の傍らにいて、共にその「普通」を生きる人だからこそ、「エンターテインメント」を選んだと考えている。
「私小説」はオチを付けない。成り行きのままに流れ、解釈せず、どうにもならないまま終わってしまい、あとは読者に委ねられる。「私小説」の多くは、「病気」を筆頭に、情痴沙汰や借金など、ネガティブな異常事態が長く続き、どうにもならない生の苦しみを得てはじめて執筆される。対して「エンターテインメント」には、最初から何も無い。現実の出来事に刺激されて始まったとしてもそれはゼロからの構築物に近い。ゼロから作り上げたものなのだから自分の責任として、物語のラストにはある種のオチを、オチと言って悪ければ、ケリをつける。そうか、あの人は、実はそういうことだったのか……。「エンターテインメント」は回収する。未解決のままにせず、そこでいったん、はい、おしまい、にする。健康なのだ。
丸山正樹氏は、「私小説」ではなく「エンターテインメント」のほうに舵を切った。そして本作ではさらにそっちへアクセルを踏み込んでいる。そしてここでの「エンターテインメント」とは、端的に言って推理小説として面白いのか? という問いと答えのことである。3編は、果たして推理小説としてどれほどおもしろいのか。胸を熱くし、涙を誘われることがあって、しかしそれが乾いた時にもなお躍動する面白さが、考えることの楽しさがそこにあるのか。
私は何度もドキドキした。推理した。その状態を存分に楽しんだ。それはもう、読んで判断してもらう以外にない。
文=北條一浩(@akaifusen)
■書籍情報
『刑事何森 孤高の相貌』
著者:丸山正樹
出版社:東京創元社
価格:本体1,800円+税
出版社サイト