芥川賞受賞作『破局』が描く、ゾンビのような恋愛 どこまでも空虚な男が行きつく果ては?
灯と付き合い始めてからも陽介の「べき」に基づく行動は一貫している。旅行先の公園で灯が滑り台を滑るのに手間取っているときに、ある男が彼女の方を見ていることに気付く。
〈私がしたように、灯の下着を見ようとしているのかもしれないと思い、牽制のために男のほうへ体を向けた。私は灯の彼氏だから下着を見ることもあるが、この男にはその権利がなく、もし本当に見ようとしているなら、私はそれをやめさせなくてはならない。〉
ここでも陽介の感情は一切見えてこない。嫉妬とか独占欲とか、女性と付き合っている男性が持っているであろうものがすっぽり欠落している。そこにあるのは「灯の恋人として自分はどう振る舞うべきか」という、ただそれだけの規範である。まるで陽介自身が陽介というひとりの人間に乗って、最善の選択肢を選び続けているかのようだ。
しかし、彼はこのあと突然涙を流す。旅行中に灯に温かい飲み物を買ってやろうと自動販売機の前まで来たが、冷たい飲み物しか置かれていなかった。灯に飲み物を買ってやれなかったことを悲しく思い、陽介は涙が溢れて止まらなくなる。
〈その上、私は自分が稼いだわけではない金で私立のいい大学に通い、筋肉の鎧に覆われた健康な肉体を持っていた。悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ。〉
優しい彼女がいて、いい大学に通っていて、鍛えられた肉体を持っていて。そんな自分は恵まれているし、悲しくなんかない。果たして本当にそうだろうか。どんなに第三者から見た良い条件が揃っていても、自分が納得し、満足していないとそんなものはなんの意味もない。涙を流しても、彼はそのことに気付けない。理由なんかなくたって、悲しんだっていいのに。
最後、灯と〈破局〉を迎えて陽介は動揺する。私は安堵していた。彼も別れ話を切り出してきた恋人に縋れるような人だったのだと。今まで抑え込んでいた感情が、痛みと悲しみを伴ってずるずると引きずり出されていく。
〈ゾンビになったと思えば、痛みも悲しみも感じない。〉
生きている限りゾンビにはなれない。生きていれば痛いし、悲しい。彼が最後に見せる姿は滑稽だが、今までで人間らしくて、私はとても好きだと思った。
■ふじこ
兼業ライター。小説、ノンフィクション、サブカル本を中心に月に十数冊の本を読む。週末はもっぱら読書をするか芸人さんの配信アーカイブを見て過ごす。Twitter:@245pro
■書籍情報
『破局』
著者:遠野遥
出版社:河出書房新社
価格:本体1,400円+税
出版社サイト