『映像研には手を出すな!』は“アニメを漫画でやろう”としているーー革新性な手法を考察

『映像研には手を出すな!』の魅力に迫る

「漫画で映画をやろう」ではなく「アニメを漫画でやろう」

 戦後の日本のストーリー漫画は、映画的手法をふんだんに取り入れた手塚治虫の『新寳島』から始まった、とされる。いや、そうじゃない、という研究者も昨今は少なくないようだが、まあ、手塚が起源だったにせよそうでなかったにせよ、ここ数十年の日本の漫画の視覚表現が映画的手法(=奥行きのある画面構成の中で描かれる人物/メカの運動や、モンタージュ理論を応用したカット割りなど)を多用することで、進化・発展してきたのは間違いないだろう。さらにいえば、手塚やその直系であるトキワ荘グループの全盛期から数十年を経たいまの若い漫画家たちは、自分たちが「映画的な漫画」を描いているという自覚すらなしに、無意識のうちにアップやパン、素早いカットの切り替えといった映画的な演出をネームのうえで施していることだろう。それくらい現在の日本の漫画制作の現場において、映画的手法は浸透しているといっていいのである。

 さて、そこで話題を大童澄瞳のヒット作『映像研には手を出すな!』に転じたい。湯浅政明監督によるアニメ版も大好評ゆえご存じの方も多いと思うが、本作はアニメ制作に夢中になっている3人の女子高生の日々を描いた青春漫画であり、この作品を読んだ多くの人々が口をそろえていうのが、「アニメっぽい」ということだ。たしかに、コミックスのカバーの折り返しに入っている著者プロフィールを見ると、「高校では映画部に所属」、さらには「独学でアニメーション制作を行う」とあり、そのわずかな情報からも、デビュー前の大童が漫画よりもむしろ映像的な物語作りの文法を吸収してきたことがうかがえる。また、漫画本編に目をうつせば、独特な画面構成はもちろん、均等な太さによるキャラの輪郭線、淡い色調のアミの多用、イメージボード風のラフなタッチの背景画、スピード線の排除、気持ちいい会話のリズム、音が響いている空間をも表わしているかのようなセリフの斜体文字、そして、アニメの設定画を見開きでいきなり挿入するという大胆な編集など、出てくる表現の何もかもがアニメ的ないし映画的である。

 ならばこの漫画も『新寳島』の系譜に連なる「映画的な漫画」のひとつかといえば、そうではないところがおもしろい。そう、この『映像研には手を出すな!』という漫画の描き手は、戦後に人気を博した一連の漫画家や劇画家たちと違い、「漫画で映画をやろう」としているのではなく、「アニメを漫画でやろう」としているのだ、たぶん。そしてそのふたつは、結果的に似たようなヴィジュアルになることもあるかもしれないが、根元の部分で描き手が目指している理想の形は大きく異なるといっていい。だから、極論すれば大童澄瞳が思い浮かべている本作の真の「完成形」は、いま彼が描いている漫画(原作)ではなく、もしかしたら現在放映中のアニメ版のほうかもしれないとさえいえるのだ。つまり、誤解を恐れずにいわせてもらえば、この大童澄瞳という異才は、とてつもなくおもしろいアニメの絵コンテを描くつもりで、『映像研には手を出すな!』を日々執筆しているのかもしれないのである。

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